魔法をかけるのは容易にはいかない、でも解くのは簡単だ…
先月、友人が集まってそれぞれの好きな映画を観るという、毎月の恒例行事で、村上春樹原作、市川準監督の『トニー滝谷』を観た。
今回、この映画を推したのは他でもない僕だ。つまりもう既に何回か繰り返して、この作品を観ているわけだ。
この映画は”孤独”をテーマにして描かれている。それがどのような孤独なのかは見る側のそれぞれの主観であるのだけれど、”孤独”ということについての大きな的は、どれだけ偏屈な人であろうと、そうそう異存のあるものではないと思う。
ただ僕はこの映画を観るとき、それとは違ったパーツに心が向いてしまう。それは”魔法を解く”ということだ。
人は往々にして”魔法がかかる”ことを願う。ここでいう”魔法”とは、ある種の奇跡のことだ。願望、祈りが叶うこと、と言い換えてもいい。あくまでも「テクマクマヤコン」や「アラビン、土瓶、ハゲチャビン」で叶う類のものではない。
たとえば誰かに恋をする。それはあまりにも素敵な女性だ。省みて自分といえばなんの取り柄もない。気の利いた誘い方もできないし、お洒落な店を知っているわけでもない。服装も野暮ったいし、仕事だって魅力的ではない…
あるいはその逆で、自分にどんな優秀なスキルや人格が備わっていたって、彼女が振り向いてくれる保証はどこにもない。
こんなとき、人は気づくのだ。たとえ自分のすべてを投げ出して、それを引き換えにしても絶対に手に入らないものがあることを。
それは恋に限らず、仕事でもなんでも、人生のあらゆる場面で起こり得る。自分の才能や努力ではどうしようもない状態。そんなとき人は願う、魔法がかかることを、奇跡が起きることを。
そしてある意味で神様が意地悪なのは、時々、その魔法を本当にかけてしまうことだ。小さな小さな奇跡は何十回か、何百回かに一度、かなってしまう。それは自分の才能や努力にかかわらず、まるで最初からシナリオにあったかのように。
人はその瞬間から幸せの絶頂になり、自分ほど幸福なものはいないと思う。ただ残念なことに人はそれに慣れ、やがて最初にどれだけ魔法を、奇跡を切望したかさえも忘れてしまう。そしてつい、うっかり何かのはずみで言ってしまうのだ。かかっていた魔法を解いてしまう言葉を。
物語の後半、トニー滝谷は彼女に「服を買い過ぎじゃないのか?」と言ってしまう。彼が彼女を望んだとき、神様との暗黙の了解で取り引きされた契約は、”風のように服を着こなす彼女が自由に服を買い続けること”だったのだ。(個人的感想)彼女が手に入るなら、その時の彼にとっては”そんなことくらい”だったはずなのに。
その因果で、彼女は交通事故で亡くなってしまう。もしかしたらある運命論者はこういうかも知れない。「そんなセリフを言ったか、言わなかったかは関係ないのだよ。仮に彼がそれを言わなくても、彼女は結局、亡くなる運命にあったのだ」と。
そうかも知れない。でも彼女の結果は同じであっても、それを”言ってしまった”残された者の未来は大きく違う、背負う十字架の重さが違うのだ。
僕たちのまわりには、こんな風に小さな魔法がかかってできたものが少なからずあるはずだ。それは恋人や友達などの人間関係であったり、職場や帰るべき家などの場所であったり。
一朝一夕に組み上げることのできないそれは、たった一言の魔法を解く言葉、もしくは”行為”で一瞬にしてなくしてしまう。
どうすればいいかを口にするのは簡単だ。だだし、それを実行するのがとても難しい。これまでに僕は、この”魔法を解く言葉”を知りながら、もしくは知らず知らずに、一体幾つ唱えてきたのだろうか。そんなことをこの映画を観るたびに考えてしまう。