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2016年10月20日木曜日

あなたの幸せ、おいくら万円?


この店(bar月読)はだいたいにおいて暇なことが多いので、お客様と1対1になることは珍しいことではなく、”困ったオーダー”というのは、だいたいそんなときによく受ける。

男性客の場合、オーダーはまずそう難しいものにはならない。あってもマニアックなものがほとんどで、女性客によくある”抽象的オーダー”はまずない。

ちなみにこれまであった”困ったオーダーNo.1”は、

「私、アルコール飲めないので、ソフトドリンクで。ジュースみたいに甘くなくて、炭酸がはいってなくて、ウーロン茶でないもの。あ、牛乳もキライです」

が、そうだ。

…うちはコーヒーも紅茶もおいていないので、どう考えても水しかないよな…と思いつつ、結局たまたまあった台湾のお茶のティーパックを使ったんだけど、あれ何茶だったんだろ?

あと、よくあるのは、

「私のイメージでカクテルをつくって下さい」

と、いうやつ。

意外に思われるかもしれないけれど、このオーダーはわりと対処しやすい。もともと本人も遊び心で言ってるだけなので、こちらも多少のジョークを交えるか、あとは相手が女性なら鉄板の方程式があるので大丈夫。(次に使えなくなるので、ここでネタバレはしないけどね)



さて、もっとも気を使う、それでいて割とよくある”困ったオーダー”はこういうやつだ。

カウンターの椅子に座るや否や、こちらがご注文を伺うと、

「マスターは今、幸せですか?」

は…?(マスターハシアワセデスカ、そんなカクテルあったっけ?と多少あせる)

ま、まあ、人からはどう見えてるか分かりませんが、幸せだとは思いますよ…たぶん。

「いいですねえ。じゃあ、私も幸せになるカクテル下さい」

嘘みたいな話だけど、本当にこういうパターンは何度もある。

『幸せになるカクテル』

”私のイメージカクテル”と違って、これはどこか潜在的に”本気度”が少しばかり混ざってるようでやっかいだ。つまり”遊び”で返せないので、真面目に対応するしかない。(知人なら激辛カクテルでもつくって、「シアワセはそんな甘いもんじゃねー!」と対応するのだけど)

さて…。

えーっと、あなたの考える幸せの価値は金銭に換算して幾らくらいですか?

「えー、そんなのお金で表せませんよ」

そうですよね。もし値をつけても100万とか1000万とかじゃ全然足りませんよね?

「そうですね…たぶん」

お客様と店、商品のやり取りは等価交換が原則ですから、仮にもし僕が魔法でも使えて”幸せになるカクテル”を本当に作れるとしたら、それだけの代金を頂きますけど、いいですか?w

「それは無理ですねw。 …でもよく”幸運を招く壺”とか、”幸運を呼ぶペンダント”とか売ってるじゃないですか? 幸運になるカクテルはない?」

ああ、そういうのよくありますよね。たぶんそれらを買ったら、その値段の分だけは幸せになれるかもしれませんね、プラシーボ効果で。わかりますプラシーボ?

風邪薬と思い込んでビタミン剤を飲んだら、治ったとかいう、あれです。つまり思い込が実際に作用する、というものですけど。

「じゃあ、世の中にある”幸せになる何か”みたいなのは全部偽物なんですか?」
僕はお化けも妖怪も幽霊も信じてるし、宇宙人もUFOも、ツチノコだって信じてますから、”そういうもの”がこの世の中にある、というのも信じていますよ。

「じゃあ、あるけど、この店にはないのですね?w」

まだ見たこともないですからね。

見つけたらぜひ仕入れたいですけどねえ。

ただ…

「ただ?」

かりにそんなものがあったとしても、それを本当に持ってたり、造ったりできる人は決してそれに値段をつけて売ったりはしませんよ。

「どうして? 等価交換じゃないから?」

それもあるけど、”人生とか運命みたいなものを変えてしまう、責任の重さとか怖さというものを、そういう人はよく知っているからじゃないでしょうか?

それにもし効き目が感じられなかったら怨みを抱く人も中にはいるでしょう? 買値以上の期待値をもって。

そもそもよく考えて下さい。

10万円で幸せになる壺を売ってる人も、1万円で幸せになるペンダントを売ってる人も、あなたがその人を見て、”幸せそうだ”と思えますか?

「うーん、あまり思えないかも…」

幸せじゃない人が”幸せグッズ”を売るって、矛盾しているでしょ?

いいですか、もし本当に”幸せになるモノ”があるのなら、それは売るのじゃなくて、”差し上げる”とか”譲る”ものなんですよ。

そうしてはじめて等価交換になるし、そのモノの効果が発揮されるんだと思いますよ。

「只であげたら、売るよりもっと差がひらいて、それまで以上に等価交換じゃなくなるでしょう?」

いいえ、違います。もしあなたが本当に"幸せになるグッズ”を持っていたとして、それをあなたが手放してでも”あげたい”と思う人は、きっとあなたにとって、とても大切な人でしょう?

”その人が幸せになればあなたが嬉しい”という気持ちと、その人が”(自分が)幸せになれて嬉しい”という気持ちとが限りなく等価交換になるんですよ。

さあ、そろそろご注文を伺いましょうか…

「…お金で幸せは買えないってことですか?」



お金で買える幸せもあると思いますよ。”良い、悪い”でなくて、物欲が満たされると幸福感があるでしょう。もちろん僕にもあります。でも、”幸せになるグッズ”が本当にあるなら、それはお金で買える類のものではない、ということですね。

「お金で買える幸せと、そうでない幸せはどう違うのですか?」



地球一周が何kmあるか知ってます?

「…わかりません。1万kmくらいですか?」

約4万kmらしいですよ。

「長いんですね…」

つまり世界でいちばん遠い場所は4万km先にあります。あなたにとっても、北極のエスキモーにとっても、上野の西郷さんにとっても、それはみんな同じ距離です。

でも地球一周するんだから、その場所はあなたの背中でもあるんですよ。

つまり世界でいちばん遠い場所と近い場所は同じなんです。メーテルリンクの青い鳥みたいな話になりますけど…

「お金で幸せを買おうとすると、幸運は4万km先に遠ざかる?」

そう考えても構いませんが、僕の言いたいのは少し違います。

”物質的な幸せを追い求める”ということは、”4万km先の場所”という具体的な数字…つまりリアルな目標が出来るということです。

だからといって簡単にクリアできる目標じゃないでしょ?世界一周なんて。

「確かに。私なら聞いただけで諦めますね」

そういう人も多いでしょうし、トライしても途中で脱落する人もいっぱいいるでしょうね。前途多難なイバラの道です。

「でも確かに数字なら実感しやすいですよね。私の幸せまであと3万5千km!…やっぱり遠いなあ。w」

逆にお金で買えない、もしくは換算できない幸せというのは、いちばん近い場所の背中にある。そもそも気がつきにくいし、そこにあると分かっても見えないし、さわれない。でも知ってさえいれば常にあなたと共に”在る”。

いちばん近い場所の幸せは手にふれることはできないけど、いちばん遠い場所の幸せも、そこに向かって歩けば歩くほど途中で気がつくんですよ…結局、進んだぶんだけ背中も移動するから、そこには永遠に届かないんだって。

「なんだ、結局、お金で買える幸せはよくないって話になりますよね」

そうではありませんよ。さっきも言ったように、どちらかが”良い、悪い”の話ではないんです。

今の世の中で、”概念(背中)の幸せ”だけで満足できる人はそうはいないでしょうし、それこそ出家でもしないとね。

それより、いちばん遠い場所と近い場所を把握しつつ、バランス感覚を養って、自分はいったい何を求めていて、それをどこで帳尻合わせするかが大事なんじゃないですか?

「じゃあ、私はどうしたらいいと思います?」

…まずドリンクのオーダーをされては如何でしょうか?w

「あ、そうですね、すっかり忘れてました。…じゃあ、私のイメージで何かカクテルをつくって下さい」

…うっ、二段攻撃できましたか⁈

「え? なんですか?」

いえ、こちらの話ですよ。

アルコール、強くても大丈夫ですか?

「はい。たぶん・・・」



ではカクテルはアラウンド・ザ・ワールド(世界一周)にしましょうか。




2016年9月19日月曜日

臨時休業

申し訳ございませんが、9月19日(月曜日)は、友人の結婚式出席のため、臨時休業させていただきます。


2016年7月16日土曜日

ロングバージョン

「ねえ、知ってる? タンカレーの瓶はロンドンの消火栓の形なんだって!」

手に持ったジンライムのグラスを眺めながら、気を取り直したように彼女が再び話しはじめた。

「…ああ、そうだね。けっこう有名な話だよ、それ」

僕は素っ気なく答え、そしていつもと同じように少しだけそれを後悔する。

僕の目の前にあるグラスは、もうほとんど飲み干されていて、彼女の手の中には氷が半分溶けて水割りになったジンライムが、カラカラと何かの死骸のような音をたてている。

「…でもさ、消火栓を真似たなら、どうしてタンカレーの瓶は緑色なの? どうせならちゃんと赤にすればよかったんじゃない?」

彼女はまるでタンカレージンの担当責任者が僕であるかのように、僕の目をまっすぐに見据えながらそう問い詰めてきた。もしこれがチェスのゲームだったら、そのあとに「チェックメイト」が聞こえたはずだ。

「それはね、酔っぱらいが間違って消火栓の中身を飲んでしまわないためなんだよ、きっと」

僕は彼女の目を見ずにそう答えた。



  シングルプレイのつもりが、いつか気づけばロングバージョン
             似たもの同士のボサノヴァ、ちょっとヘヴィめなラヴソング




タンカレーの”ロングバージョン”、『タンカレーラングプール』。そのままでライムと生姜の風味が特徴。瓶もノーマルのタンカレーより少しだけ大き目です。







暁を遊ぶ猫

「おもしろうてやがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」  芭蕉

この俳句の意味は、楽しく華やかな鵜飼が終わったあと、たまらなく悲しい気持ちになるという”祭りの後の寂しさ”を詠んだもので、とくに難しいものではない。

でも僕はこの句の意味を長い間、誤解していて、「鵜飼を最初に見物したときは楽しい気持ちになるが、やがて慣れてくると鵜が人間に利用されて鮎を採っても吞みこめず、吐き出さなくてはならないことが可哀想に思えてくる」という風に理解していた。


この夏の季語のはいった句を、蒸し暑い梅雨の最中に思い出したのには訳がある。

寝息についてときどき思う。

自分の寝息を聞くことはできない。だからといって、無条件で誰かの寝息を聞くこともできない。道を歩いている知らない女の子に声をかけて、「あなたの寝息を聞かせてください」なんて言おうものなら悲しい結末が待っているのでやめた方がいい。


寝息を聞く、という行為。

それは自分に気を許してくれる、近しい人がそこにいる、という状況に他ならないのだ。


暗い部屋の中で感じる微かな息遣いと小さな鼓動。それはその人の存在の証であり、ある種の安心感だ。でもそれと同時にいつか必ず闇の中に溶け込んで消えてしまう種類の音なのだと心のどこかで確信している。そして現実に静寂だけが自分の周りに残るのだろう。(もちろん自分の方が早くそうなってしまうことだって往々にしてあるのだが)

そう思うと真っ暗な部屋の中で聞こえてくる微かな寝息が、いまにも止まってしまいそうで儚く思えて、生きていてくれることが”実感として”(つまり概念ではなく)奇跡のように思える数少ない時間なのだと思う。


ある日の早朝。

うちの寝室のガラス窓の向こうにはベランダがあり、たまにそこでノラ猫の黒ちゃんとトミーが「フーーッ!」と唸り声をあげながら縄張り争いをくりひろげていることがある。

まったく迷惑な話で、喧嘩してダミ声あげるなら昼間にやってくれよ、と思う。世間は朝でも、こっちは深夜営業でこの時間はまだ真夜中なんだから…とムニャムニャいいながら目を覚ます。

少しずつ頭が冴えてくると、猫の唸り声はベランダで繰り広げられている喧嘩ではなく、横の布団で気持ち良さげに眠っている”近しい人”から発生しているものだと分かった。(黒ちゃん、トミー、疑って悪かった。今度、メザシあげるからね)

奇跡も大き過ぎると、平和な日常を飲み込んでしまうのだ。

「…おもしろうてやがてかなしき寝息かな」



ビトウィン・ザ・シーツというカクテルがある。本来は男女間で「さあ、ベッドに行きましょ」という艶っぽい意味のカクテルなんだけど、まあ日本人でこのカクテルを使いこなせる人はいないだろうな。(これまで10年以上、オーダーを伺ったこともないしね)

実際的には寝息を聞きながら、あるいはそれを思い出しながら、奇跡に感謝して飲むくらいがちょうどいいのかも知れない。出来ることなら、小さな奇跡を。





2016年7月5日火曜日

それは今年はじめてセミの声を聞いた午後

暑さで倒れそうな午後、それでも夕食の買い物に出かけ、這々の体で家に帰る道すがら。

小学生の一年生くらいかな? 二人の女の子が自分の顔の倍くらいあるプリントを広げながら、”花は咲く”を大きな声で合唱しながらこちらに向かって歩いてきて、やがてすれ違った。

その歌声はとても楽しそうだった。

♪花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
私は何を残しただろう♪

…っていうあの曲。

今の音楽の教科書に載っているのかな?

そういえば僕が中学生のとき、フォークソングが好きな先生が音楽の授業で教科書を使わずに、自分の好きな曲を藁半紙(僕の育った地方ではザラバン紙と言ってた)に刷ってきてよく唄わせていた。”なごり雪”、”旅立ち”とか、”あの素晴らしい愛をもう一度”とか…

音楽の授業でいちばん覚えているエピソードといえば小学6年生(5年生?)のときのことだ。毎年恒例の校内合唱コンクールで、僕のクラスにだけ、あるトラブルが持ち上がった。

どこもそうなのかも知れないけど、僕の小学校では音楽の授業だけは担任の先生が教える他の教科と違って”音楽の先生”というのがいた。

音楽の授業は普通、気楽に楽しく過ごせるもののはずだ。ところがこの先生、年配のかなりヒステリックな女性でとにかく怖かった。授業の間はみんなピリピリした緊張感を強いられ、どちらかというとかなり苦痛な時間だったのだ。

あのとき、いったい何が原因だったのかもう忘れてしまったけど、僕等のクラス全員がこの先生の機嫌を損ねてしまって、合唱コンクールの課題曲、自由曲ともに「私はもうあなた達には教えません、勝手にやりなさい‼︎」と放棄されてしまった。

合唱コンクールの練習は通常、音楽の授業時間に行なわれるはずが、この先生はそれからずっと通常の教科書に沿った授業を行ったのだ。つまり僕等のクラスには合唱コンクールの練習する時間を与えられなかったわけだ。

普通、そんなことしないでしょ?
小学生相手に本気だしてさ。

まあ、僕等もすぐに謝りに行けばよかったのかも知れないけど、そうしなかったしお互い様かも知れないけど。(でもみんな心底、あの先生が怖かったんだと思う)

で、それからどうなったかというと…

面白いもので、こんな状況のときほどクラスは一致団結する。この年頃は男女がわりと反発しあってなかなか相容れないものだけど、このときは違った。

昼休みや放課後の短い時間に、みんな集まって合唱コンクールの練習をしたんだ。教室の片隅でピアノの伴奏なしで、男女それぞれのコーラスパートを決めたりして…

で、テレビドラマだと、これで優勝したりするのだろうけど、現実はそう甘くはないからね、結果はいちばんにはなれなかったけど、印象に残るいい思い出にはなった。何より担任の先生がすごく喜んでくれたしね。

あのときの課題曲はもう覚えてない。自由曲はこのトラブルが持ち上がってから、
「さてどうしよう? 」
「じゃあ自分たちだけでなんとかしよう!」
となったとき、担任の先生が提案した曲だった。たしか割と強引に決められたようにも思う。

…自分が好きな歌だったから、唄わせたかったんだろうな、”戦争を知らない子供たち”

♪おとなになって歩き始める
平和の歌をくちずさみながら
僕らの名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ♪

あれから30年以上が過ぎ、僕等はいつの間にか大人になって、たしかに歩き始めはした。

でも平和の歌を口ずさんできただろうか?
考え、選んで、行動し、責任をもってきただろうか?

あのときのクラスのように、またひとつにまとまれたらいいのにな、と思う。

すれ違った女の子たちのうち一人は、どうやら家に帰ったらしく、僕が振り向いたときはもうすでに一人の女の子だけだった。

その子はたった一人になっても、大きな声で最後まで歌いきり、それからすぐに元気よく駆けだしていった。



私は何を残しただろう。

あなたたちの未来に花が咲きますように。








2016年7月1日金曜日

バックバーの風景

バーテンダーが初めてのバーに行くと、ほとんどの場合その店のバーテンダーに”同業者”であることがバレてしまう。

…バックバーという言葉を知っているだろうか? バーでカウンターに座るとそこから見える向い側の壁(の棚)にウイスキーなど、多種多様な酒がこれでもか!ってくらいに並んでいる光景、あれがバックバー。

同業者の場合、ドアを開けて入ってくると、まず店全体を眺める。でもそれは一瞬だけで、そのあと視線はずっとバックバーに注視されたままになる。カウンターに座るために椅子を手前に引くときも、腰掛けるときも、とりあえず何かをオーダーするときも、ずっとバックバーを見ている。仮に見ていないときがあったにせよ、意識は常にバックバーだ。この時点でだいたい80%くらいは”ご同業”と判別されてしまう。

ではそこになにを見てるのか?

「あの酒がある!」

「あんな酒も置いてある!」

「おおっ、あんな高級酒が…」

「むうっ、あの酒は見たことないぞ‼︎」

…とか、まあ、そんな感じだろうか。

でもいちはん観るのは全体を通したその人(店)のセンスだと思う。よほど大きな店ならともかく、一般的にバックバーのスペースは限られていて、置ける酒の本数も決まっている。そこにどういった意思やある種の哲学を踏まえて酒をセレクトしているのか?…ということを、たぶんみんな見てるんだと思う。

このとき、たとえば自分が欲しかったのに、どうしても手に入らなかったボトルがそこに並んでいたとしても、そこに少しばかりの羨望があったとしても、それは悲喜こもごもなとても心地の良い刺激であり、自分自身は時間の流れの外にいて、柔らかな空気の中に包まれているようなとても幸せな時間なのだ。

実は昨日、初めてのバーに行った…わけではなく、京都駅の伊勢丹内にあるギャラリースペース”えき”で行われている安西水丸展に行ってきた。



僕はだいたい美術館に行くとひどく疲れてしまう。優れた作品に向き合うと(概ね絵画のことだけど)、そこから発せられるエネルギーみたいなものに正面から対峙しなければならないので、こちらもかなりのエネルギーを消費する。そしてあたりまえだけど、ことごとく打ち負かされてしまうので、出口を抜けるときはもうクタクタなのだ。

だから心身ともに良好なときにしか美術館には行かないし、ヨメに誘われても断ったり、渋々つきあって怪訝な顔をされたりして、最悪の場合は交戦状態となる。w(たぶんよほど不機嫌そうな疲れた顔をしているのだろう)

ところが昨日の安西水丸展はそうはならなかった。それがイラストレーションだったから…ではないと思う。もちろん作品にそれだけの力がなかったから、でもない。

僕にとっては滅多にないことだけど、出口のところまできて、もう一度引き返して最初から観てまわった。(小さなギャラリーを別にして、こんなことはいつ以来だろう!)

2度目の最終コーナーのあたりでさすがに歩き疲れて、設営されていたベンチに腰掛けながら、「多才な人だなあ…」とか、「なんであの作品をみて泣きそうになったんだろう?とくに好きなものではなかったのに…」とか、ぼんやりと考えていた。そしてもう一度遠回しに作品を眺めたとき気がついたんだ。

「あ、バックバーを眺めているみたいだ」







2016年6月26日日曜日

仕事にストレスはあるか?

店に古い友人が訪ねてきた。

ひとしきり昔話をしたあと、どうも彼は仕事のストレスが溜まっていて、ずいぶん疲れているらしいと分かった。

「おまえも客商売やってるとストレスあるやろう?」と聞いてきたので、「ない」と答えると、しつこく「そんなことないやろう、嫌な客もいるやろう?」という。

確かにそういったことも年に何回かあるかもしれないけども、それはその日(数時間)だけの”点”であり、ずっと継続する”線”になることはないのだ、と説明した。

「どっちかといえば、むしろ仕事はストレス解消になる方やなあ」と答えると、友人はヘソを曲げてムクれてしまった。

実際その通りだったので、友人が帰ってからも「今まで仕事にストレスなんて感じたことなかったよなあ?」と自問自答してたら…あった、ストレスが。




お客様の残した飲食物を捨てなけれればならないという、店をやっていると必ずある作業。これは毎回けっこうなストレスなのだった。

ここはバーなので、カクテルなんかの飲み残しがあるとそれは”ウデ”が悪かったので美味しくなかったという、こちら側の責任なんだけど、その他にもいろんなケースがあって、最終的にゴミ箱に捨てるときは嫌な気持ちになってしまう。(自分に対して、ね)

少なくともお客様に提供する酒だけは、こちらのウデ次第(味だけでなく、そのお客様が本当にもう一杯飲めるのかという、酔い加減の判断とかも)で、年間ゼロにできる可能性もあるのだからそこは精進するしかないのだけれど、まあ永遠の課題だろうなあ。

そういえば、お酒の席でのよくある話題のひとつに、「どんな女性(男性)がタイプですか?」というのがあるけど、たまにお客様から”話のついでに一応、あなたにも聞いとくわ”的に話をフラれることがある。

答える内容はいくつかあって(贅沢?w)、全部いうわけではないけれど、でも必ずいうのは、「自分で注文したものをちゃんとぜんぶ食べる人が好き」。これは女性だけでなく男性に対してもだけどね。

ああ、こんな話してたらお腹すいてきたけど、来月は人間ドックがあるので、それまでは”夜中食べない強化月間”なのだった…





エデンの花




昨日、私が生まれながらにして摘みとった花は

今日、当たり前のようにして貪った甘い果実は

少し遠い昨日、誰かの血を糧として咲き、誰かの命を支柱として実ったものだった。

ここはエデンにあらず

種を蒔かずば花は咲かない

ここは桃源郷にあらず

鍬をふらずば実はならない

永遠に手が届かない記憶をたぐりながら

散り際の花に生命をやすめて。







2016年6月23日木曜日

マティーニを飲みながら、最後の挨拶を聴く

「ウォッカマティーニを…ステアーじゃなくシェイクで!」

有名な007、ジェームズボンドの台詞ですね。いつかはこんな風にかっこよくオーダーしてみたいものです。

ところで疑問に思ったことはありませんか?

イギリス秘密情報部員であるジェームズボンドは、なぜ自国の名産品であるロンドン・ドライ・ジンではなく、東側のウォッカを使って作るマティーニを好んだのか?…と。矛盾してるでしょう? それでなくとも西洋人は自国の文化や産物に頑ななプライドを持っているはずなのですから。

ふっと思いついたこの疑問、何度かネットで検索をかけてみたけど、明確な理由は記されてはいませんでした。

ただ興味深いことが書かれている箇所が1件だけあって、それはミステリー作家の東理夫氏いわく、007の原作者である英作家のイアン・フレミングが第1作、カジノロワイヤルで登場させたボンドマティーニ、通称”ヴェスパー”のレシピに謎を解く鍵がある、と。



〈一般的なマティーニのレシピ〉

ジン
ベルモット
この2つをステアーし、グラスに注いでオリーブを飾る…です。


〈ヴェスパーのレシピ〉

ジン
ウォッカ
キナ・リレ
この3つをシェイク、レモンピールを振りかけ落とす、です。


東理夫氏の推理はこうです。
ジン=イギリス
ウォッカ=ソビエト(ロシア)
キナ・リレ=フランス
レモン=アメリカ(カルフォルニア?)
…をシェイク。

つまり冷戦時代、その主要国を混ぜ合わすレシピにおいて、イアン・フレミングが世界平和の祈りをそこに込めたのではないか? という説なのです。

とても興味深く面白い推理で、個人的にこういうアプローチでカクテルのルーツを紐解くのは大好きなのですが、ただ残念なことに映画シリーズではウォッカはスミノフが使われています。この銘柄はロシアからフランス、アメリカ、イギリスへと買収された歴史があります。(そしてこの時代はもうアメリカ資本でした)

もし東理夫氏の推理が正しいとするなら、イアン・フレミングの意向は映画では反映されなかったことになりますね。





さてもう一人、スパイの次は名探偵です。

シャーロックホームズ、小学生の頃に1度くらいは読んだことがあるのではないでしょうか?
いくつかの有名な事件のタイトルもすぐに思い浮かぶかもしれませんね。

では、シャーロックホームズの原作(つまりコナンドイルが書いた)の最終話を知っていますか?
それは ”最後の挨拶”という短編です。

いつものような助手であるワトソンの語りでもなく、筋書きも引退していた老後のホームズに、総理大臣から依頼されて第一次大戦時のドイツ軍スパイを捕まえるという異色作品です。

作品中、読者が期待するようなホームズのそれらしい挨拶があるわけでもなく、第一次大戦でコナンドイルが息子を失った遺恨から、憎しみを込めてドイツスパイを懲らしめる話を書いたとも解釈されていて、この作品は概ね不評なようです。

ただ…スパイを捕らえた後、久しぶりに顔を合わせたホームズとワトソンは海を眺めながらこんな会話を交わしています。

「東風(こち)になるね、ワトソンくん」

(東風はイギリスで冬の前触れで忌み嫌われる。ここではホームズは”大戦への予兆”を指している)

「そんなことはなかろう。ひどく暖かいもの」

(ワトソンはホームズのメタファーに気がつかない)

「相変わらずだねえ、ワトスン君は。時代は移ってゆくけれど君はいつまでも同じだ。とはいうものの東風は来るのだ。いままでイギリスに吹いたことのない風がね。冷たく激しい風だと思うから、そのため生命を落とす人も多いことだろう。だがそれは神のおぼしめしで吹くのだ。嵐が治まったあとは、輝かしい太陽のもと、より清く、より良く、より強い国ができることだろう…」

僕は思うのです。この話は本当に遺恨なのだろうかと。この”最後の挨拶”は読者に宛てた、もっと大きな祈りに似た何かではないのだろうかと。

本質的なことは本人でなくては知る由もありません。(もしかすると本人さえも) ただ後世、本人の意思とは別のところで何かが動き、歪み、ねじ曲がってしまうことはよくある話です。先のマティーニのように。

この最終話は8月の出来事に設定されています。それはドイツが宣戦した月だから。

でも私たちは8月ではなく、次の7月にこのシーンと同じような舞台に立つことになるのでしょう。そして再びホームズが”最後の挨拶”をするはずです。

「東風(こち)になるね、諸君」

「相変わらずだねえ、諸君は。時代は移ってゆくけれど君達はいつまでも同じだ。とはいうものの東風は来るのだ。いままで吹いたことのない風がね…」

ジェームズボンドやシャーロックホームズは実在しないし、なにかあっても助けてはくれない。でも作者の思いは常にそこに在り続ける。

メッセージは誰かのもとに届くだろうか?

やるべき事をやり、あとは先人たちの祈りを信じようと思う。






梅酒いろいろ

満月の夜に梅酒を漬ける。(2016 6/20)

今年は紹興酒と純米酒と黒酢の3種。

職業柄、ほとんどすべての酒で梅酒を試したけど、個人的にお勧めできるのはつぎの5つ。

ズブロッカ(ウオッカ・桜餅の香り)
シェリー(中辛口のアモンティリャード)
紹興酒
カルバドス(林檎のブランデー)
純米酒(いちばん癖がなくあっさりしています)

あと、梅黒酢は和え物やドレッシングに即席で使えてとても重宝するのです。


2016年6月13日月曜日

結婚と自由と、アイマスク

お客様とのよくある会話で…

「結婚っていいですか?」というのがある。

けっこう難しい質問で、どう答えても”後出しジャンケン”のように、こちらが負けるようにできている。

つまり、「結婚っていいですよ」というと、「ノロけちゃって〜。いいですね、奥さんと仲が良さそうで」、みたいな感じで冷やかされるし、逆に冗談でも「もう大変ですよ、結婚なんて…独身が羨ましいです」なんて答えようものなら、「これだから日本人の男性は伴侶を素直に褒めなくてダメなんですよ〜」と責められる。

だから最近では、この手の質問に対して、「イギリスの偉い学者さんは、”結婚前は両目を大きく開いて見ろ、結婚後は片目を閉じろ”と言ってますよw」とはぐらかして、責任をトーマス・フラーにすべて押しつけている。

そうすると次にこういう質問がくる。ほとんど必ずくる。

「でも…結婚したら自由がなくなるでしょ?」と。

ニュアンスはわからないでもないが、この質問には根本的な誤解がふたつあると思っている。

「就職すると自由がなくなるでしょ?」といって仕事をしない人はいない。(フリーランスを選ぶ人もいるだろうが、それはあくまでも自由度を秤にかけたわけではない)

つまり、ことの本質におけるメリットと本質でないところのデメリットを比べてみても解決には至らない。

もうひとつ。

自由ってなんだ?という問題だ。

時代や環境によって、自由の意味はまったく違う。

ローマ時代の奴隷は牢獄に入れられ、手足を拘束されていたとしても、現代の日本では、ほとんどの人は善良に生活していて刑務所暮らしをすることはない。

会社や学校に行かなくてよかった石器時代は、自由で良かったという人がいるかもしれない。

確かに時間的な自由はあるかもしれないが、不注意に出歩こうものなら、凶暴な肉食動物や他の部族に襲われる危険性があっただろう。そういう意味では、安全にその辺りを散歩できる会社員や学生の方がずっと自由だともいえる。

結局、現在において重要な自由というのは、”いかに多くの選択肢をもてるか”にかかっていると思う。ひとつよりもふたつ、ふたつよりもみっつの選択肢がある方がより自由だ。

結婚の話にもどると、質問者の意図は「結婚するとお互いに拘束されあうから、自由な時間が減る、あるいはなくなるでしょう?」ということなんだろうけど、”選択肢”の視点で考えると違う答えが見つかる。

世の中には”ひとりでは行動できないこと”、”伴侶がいないと楽しめない事柄”というものは多かれ少なかれ、必ず存在する。

そして”ひとりでしか楽しめない時間”も、お互いの理解と尊重があれば、結婚していてもそれを得ることは可能だ。

つまり「結婚する、しないは自由だけれど、結婚した方が”後々の選択肢は多くなる可能性がありますよ”。もちろん”そうなる相手を得られるかどうかはあなたの選択(人を見る目)にかかっていますが」ということになる。

…こう言うと(よほど気を許したお客様にしか、ここまで話さないけど)、まただいたい同じような反論が矢のようにとんでくる。w

「それは自分(僕のこと)が、それを得られた、いわゆる”勝ち組(この言葉はキライなんだけど)だから言えるんでしょ!」と。

ここだけの話ですがね、そんなことないですよ、理想と現実は違うんです。だって今、僕は自分用の”アイマスク”を探してるんだから…両目を閉じるために、ね。(これだから日本人の男性はダメなんだ……ああ、堂々めぐり)




さて、”自由”といえば有名なカクテルは『キューバリバー(リブレ)』

自由なるキューバ、万歳!という意味のカクテルで、独立戦争の合言葉に因んで作られました。
ラムにライムを搾って、コーラで割るという、なかなかジャンクなカクテルで、日本人のバーテンダーが率先して作ることは少ないかもしれませんね。

沖縄の伊江島で造られているラム、サンタマリア・クリスタルの個性的な香りがコーラに負けず良い感じに仕上がります。月読のレシピはそれ以外にライムではなくレモンを使い、輪郭をハッキリさせることを好んでいます。

あと、アンゴスチュラビターを一滴入れるのが隠し味。大人の自由は少しばかり苦いのです。





2016年6月3日金曜日

堕天使

僕の背中には羽根がある。

それはたった一本だけの羽根なのだ。

”片翼”などという、ある種のカタルシスをともなった格好のいい存在ではなく、文字通りたった一本だけの”羽根”。不細工この上なく、もちろんなんの役にもたちはしない。

普段は、その存在をまったく忘れてしまっている。たまに、ほんとうにたまにだけ、その存在を思い出すことがある。

それはシャツを着替えているとき、背中に何かが引っかかるような感じで。ときにはシャワーを浴びながら背中を洗っていて、不意に雷が落ちたように手に触れてしまったりするのだ。

そんなとき、僕はどうしていいのか戸惑ってしまい、それを思い出してしまったことをひどく後悔する。それはデートに浮かれて、ついうっかり観覧車に乗ってしまい、最上部まで来てしまった高所恐怖症の人のように。

忘れてさえいれば、気がつきさえしなければ、なんてことはないのだ。

ただその一本の羽根に希望を託すにはあまりにも重く、絶望するにも中途半端で満ち足りてはいない。

パンドラが最後に箱から出したものが、もしかしたらもっとも罪深きものだったのではなかろうかと、今日も懐かしい空を見上げている。




カクテル FALLEN ANGEL(堕天使)
80%がジンという悪魔的レシピの中に、数滴だけレモン&ミントリキュールという爽やかな天使の要素を含む。このカクテルの作り手はなかなかのシニカリストなのだ。





2016年5月15日日曜日

お知らせ

<月読 臨時休業のお知らせ&チャリティ・イベントのご案内>

5月15日(日曜日)、bar月読は臨時休業させていただきます。ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。

ただ通常営業はいたしませんが、蓄音機を使ったチャリティイベントを行います。

店でお預かりしている蓄音機、普段の営業中もリクエストがあればおかけいたしますが、なにぶん1曲ごとに針の交換やゼンマイを巻いたりする必要があり、混み合っている時や注文が立て込んでいたりすると、ご要望に添えないことも多々ありますので、お時間がございましたらこの機会にぜひ1920年代の音をお楽しみ下さい。クラシックやジャズだけでなく、フラメンコや美空ひばり、長唄などもあります。

東日本、熊本震災チャリティ

『bar テゴメ屋』蓄音機night

主催 手染メ屋 青木 bar月読 平岩
お酒を飲みながら、1920年代につくられたゼンマイ式蓄音機の傑作”クレデンザ”でレコードを聴こう、というものです。

クレデンザに関してはこちらを参照ください。


ーーご案内ーー

★場所:Bar月読(京都市内冨小路通御池上る 電話075ー211ー0414)
★時間:16時~22時(とくにプログラムはなく、お好きな時間に来て頂いて、退出も自由です)
★参加費:おひとり様3000円

・ワンドリンク・ワンディッシュ付(追加は別途費用)
※原価を差し引いた売上金全額を東日本・熊本地震で被害に合われた団体への義捐金基金とさせて頂きます。(いつもは”原価差引”はせずに全額を基金にまわすのですが、今回は定休日の利用ではなく、日曜の営業日を使ってのイベントなので、少しだけ考慮させていただきます)
どうかよろしくお願いいたします。



2016年3月11日金曜日

魔法を解く

魔法をかけるのは容易にはいかない、でも解くのは簡単だ…

先月、友人が集まってそれぞれの好きな映画を観るという、毎月の恒例行事で、村上春樹原作、市川準監督の『トニー滝谷』を観た。

今回、この映画を推したのは他でもない僕だ。つまりもう既に何回か繰り返して、この作品を観ているわけだ。



この映画は”孤独”をテーマにして描かれている。それがどのような孤独なのかは見る側のそれぞれの主観であるのだけれど、”孤独”ということについての大きな的は、どれだけ偏屈な人であろうと、そうそう異存のあるものではないと思う。

ただ僕はこの映画を観るとき、それとは違ったパーツに心が向いてしまう。それは”魔法を解く”ということだ。

人は往々にして”魔法がかかる”ことを願う。ここでいう”魔法”とは、ある種の奇跡のことだ。願望、祈りが叶うこと、と言い換えてもいい。あくまでも「テクマクマヤコン」や「アラビン、土瓶、ハゲチャビン」で叶う類のものではない。

たとえば誰かに恋をする。それはあまりにも素敵な女性だ。省みて自分といえばなんの取り柄もない。気の利いた誘い方もできないし、お洒落な店を知っているわけでもない。服装も野暮ったいし、仕事だって魅力的ではない…

あるいはその逆で、自分にどんな優秀なスキルや人格が備わっていたって、彼女が振り向いてくれる保証はどこにもない。

こんなとき、人は気づくのだ。たとえ自分のすべてを投げ出して、それを引き換えにしても絶対に手に入らないものがあることを。

それは恋に限らず、仕事でもなんでも、人生のあらゆる場面で起こり得る。自分の才能や努力ではどうしようもない状態。そんなとき人は願う、魔法がかかることを、奇跡が起きることを。

そしてある意味で神様が意地悪なのは、時々、その魔法を本当にかけてしまうことだ。小さな小さな奇跡は何十回か、何百回かに一度、かなってしまう。それは自分の才能や努力にかかわらず、まるで最初からシナリオにあったかのように。

人はその瞬間から幸せの絶頂になり、自分ほど幸福なものはいないと思う。ただ残念なことに人はそれに慣れ、やがて最初にどれだけ魔法を、奇跡を切望したかさえも忘れてしまう。そしてつい、うっかり何かのはずみで言ってしまうのだ。かかっていた魔法を解いてしまう言葉を。

物語の後半、トニー滝谷は彼女に「服を買い過ぎじゃないのか?」と言ってしまう。彼が彼女を望んだとき、神様との暗黙の了解で取り引きされた契約は、”風のように服を着こなす彼女が自由に服を買い続けること”だったのだ。(個人的感想)彼女が手に入るなら、その時の彼にとっては”そんなことくらい”だったはずなのに。

その因果で、彼女は交通事故で亡くなってしまう。もしかしたらある運命論者はこういうかも知れない。「そんなセリフを言ったか、言わなかったかは関係ないのだよ。仮に彼がそれを言わなくても、彼女は結局、亡くなる運命にあったのだ」と。

そうかも知れない。でも彼女の結果は同じであっても、それを”言ってしまった”残された者の未来は大きく違う、背負う十字架の重さが違うのだ。



僕たちのまわりには、こんな風に小さな魔法がかかってできたものが少なからずあるはずだ。それは恋人や友達などの人間関係であったり、職場や帰るべき家などの場所であったり。

一朝一夕に組み上げることのできないそれは、たった一言の魔法を解く言葉、もしくは”行為”で一瞬にしてなくしてしまう。

どうすればいいかを口にするのは簡単だ。だだし、それを実行するのがとても難しい。これまでに僕は、この”魔法を解く言葉”を知りながら、もしくは知らず知らずに、一体幾つ唱えてきたのだろうか。そんなことをこの映画を観るたびに考えてしまう。







2016年1月17日日曜日

お知らせ

★2016 1月17日(日曜日)から19日(火曜日)まで法事のため、臨時従業させて頂きます。ご迷惑をおかけいたしますが、御了承下さいませ。

2016年1月14日木曜日

正月あけは暇すぎる、ましてや寒い夜ならなおさらだ。

去年の秋からとある事情により、村上春樹作品(エッセイ、ドキュメンタリーを除く)の完全読破計画を実行中で、あと3作品を残すのみとなりました。

ただ、ここにきて、なんとなくゴールして終わってしまうのが惜しい気持ちと、ちょっと一旦一息いれようかということで、ミステリーを読んだのです。古典的名作なので、知っている人も多いだろうハリイ ケメルマンの「9マイルは遠すぎる」。

これは以前に読んだことがあって、それがハードカバーだったのかは忘れてしまったのだけど、本屋で偶然に文庫本を見つけたので思わず買ってしまいました。



簡単に説明すると、これはミステリーの短編集で、表題の「9マイルは遠すぎる」はハリイ ケメルマンの処女作。ページ数はなんとたったの18ページしかありません。ところがこの短い話は、ミステリー史上トップクラスのプロットだと言われているのです。

さわりだけいうと、こんな感じ。

群検事の”私”が語り手でシャーロックホームズでいえば”ワトソンくん”。友人の英文学教授、通称ニッキーが役柄的にはいわゆる”安楽椅子の探偵”でホームズ役。

彼らはチェス仲間で、ある日、田舎のレストランで食事をしています。そこでの話題は、”ある短い文章から、色々な推論を仮定していくことが可能だ”ということ。この話題は食事が終わっても続いていきます。レジでチェックを済ませているときも。

「では試しに単語10から15個程度の文章を何かいってみてくれ、その文章から僕がいくつかの推論をお目にかけよう」

と,ニッキーが”私”にいいます。

レストランを出て帰る道すがら、”私”は

「では、9マイルもの道を歩くのは容易ではない。ましてや雨の中となるとなおさらだ”ではどうか?」

と,いいます。

ニッキーはたったこれだけの文章(実際は会話)から、殺人事件が起こったことを推理し、しかも犯人が今何処にいるかさえ当ててしまうのです。

なかなか面白そうなプロットでしょう?

ただ僕は、この話は以前に読んでいたので新鮮ではなかったし、むしろ他の短編(この二人が出てくる一連のシリーズ)を読み終えて、つまり一冊を読み終えて、まったく違うところに興味をもったのです。

この短編集には序章があって、作者がいかに長い年月をかけて、「9マイル…」を完成させたかと、ミステリーの王道は短編であり、そのプロットの斬新さだというような事が書かれているのです。
つまり彼、ハリイ ケメルマンは長編のミステリーは読み手をわざと違う結論に導く為に敢えて余計な情報を織り込み、その結果、作品をつまらなくする。短編ミステリーこそが謎解きを純粋に楽しめるツールなのだといっているのです。

さて、この一冊はニッキーシリーズとして作品発表した時系列の順に短編が進んでいきます。つまり”9マイル”がトップにあり、その後に7作の短編が続くのですね。

僕が興味深かったのは、プロットの面白さでは間違いなく”9マイル”が群を抜いて素晴らしい。なのに読後感としての面白さは後の作品になる程、より面白く感じてくる点。

なぜだろう?これはハリイ ケメルマンの”プロット命説”に矛盾してしまう。

もしこの感想が僕個人の選り好みによるものなら仕方がないのだけれど、そうでないなら幾つかの原因が考えられます。

「9マイル…」は処女作なので、順を追って作者の文章力があがった。

同じような理由で、翻訳者がこの世界観を体得して、後になる程、テンポよく訳され読みやすくなった。

この2つも”アリ”だとは思うのですが、おそらくいちばん納得いくのは、読み手である僕自身がこの世界観に慣れ親しんで、キャラクターに愛着を持ち得たからではないでしょうか。

後になるほどに、行間に書かれてはいない彼ら登場人物の息遣いが聞こえ、推理には関係のない無意味な動作が見えるようになってくるのです。

そういう意味において、序章のハリイ ケメルマンの見解、短編&プロットこそミステリーの王道説は、否定はしないまでも、あまりに短いとせっかくのプロットがもったいない気がしてきます。もし彼が晩年、「9マイル…」をセルフ リメイクしたらもっと面白くなったのではないかという気もするのですが、こんなことをいうとファンに叱られるかもしれませんね。


さて、今夜からは村上春樹に戻ります。

次はアフターダークです。

2016年1月13日水曜日

象徴としてのサンタマリア

「この店のお勧めはなんですか?」と訊かれると困ってしまいます。

お勧めじゃないものは仕入れていませんし、こちらがお客様の嗜好を把握していないのに、まったくタイプの違う何十種類のお酒の中から選ぶのは不可能だからです。

せめて「バーボンの中でお勧めは?」とか、「デザート酒でいいのある?」という風に訊いて頂けると助かるのですが、まあ、なかなか難しいものがありますよね。

ところで、”お勧めの酒は?”という問いかけには答えに窮するのですが、”この店を象徴する酒は?”という質問があれば(まずそんな質問はないでしょうが)、それには即答することが出来ます。
それは沖縄県、伊江島で造られているラム、”サンタマリア”です。



このラムとの出会いは、沖縄に旅行に行った帰りの空港のショップでした。友人や常連のお客様への土産にしようと思ったのです。

京都に着いてから自分の店で試飲して驚きました。そしてその日からbar月読のメインラムになり、とくにダイキリなどのホワイトラムを使うカクテルには、今ではなくてはならないものとなっています。

”象徴”という意味において、それはたんに美味しかったからだけという訳ではありません。
このラムに出会ったとき、それは有名なものではなかったし、ブランドものでもなかったし、究極に完成されたものではありませんでした。おそらく京都で殆どの人が知らないであろう、国産の、それも大手企業ではない小さな蒸留所のラムを使ってメインのカクテルを作るということは、barにとってかなりのリスクを冒すということです。

ブランド、広告戦力なしで、自分の信じる感性と味覚だけで、お客様に納得して頂けるかどうか…
沖縄から帰ってきて、店で初めてこのサンタマリアでダイキリを作って飲んだとき、それまでに感じたことのない豊潤な大地の匂いがしました。遥か昔、ジェニングス・コックスがキューバのダイキリ鉱山で作って喉を潤したカクテルも、もしかしたら同じ香りがしたのではないかと想像できるような。

僕はかれこれ30年ほどbarというものに携わってきたけれど、そんな風にして何の予備知識もないお酒を自分の店の”お勧め”にしたのは初めてです。つまりそのポリシーとか”在り方”について、が、この店の”象徴”な訳です。そしてこれからもそういったものを探していきたいと思っています。
さて去年の年末、とても嬉しいことがありました。

よく、年末に”今年の10大ニュース”とか言い合うでしょう? 他のジャンルは色々と迷うことが多かったのですが、お酒についてのニュース、出来事はそれがno.1でした。
関東から大阪に出張していたお客様、わざわざブログを読んで京都まで月読に足を運んで頂きました。

数杯飲んだあと、バックバーに並んでいる酒の列を見て、「ちょっとその酒を見せて下さい‼︎」とそのお客様。

それは数量限定で発売されたサンタマリアの樽出し”T1”。

そのお客様の話によると、以前、アメリカのシアトルで(出張で)ラム専門のbarに入ったそうです。そこは在庫総数で全米no.2の300種という本数を持っていて、そこのマスターが、彼が日本人だと知るとスマホの写真を見せながら、「君はこのラムを知っているか? 私が日本に行って飲んだラムの中でいちばん美味かったラムだ!」といったらしい。

彼は知らなかったし、飲んでみたかったので注文すると、「私も是非とももう一度、飲んでみたかったので、帰国後すぐにネットを調べてみたが、既にソールドアウトだった…オーマイガー」というような返答だったらしいです。

そして「君が日本に帰ったら探してみるといい、ラムが好きなら是非とも飲んでみるべきだよ」と。
サンタマリアが遥かアメリカで、それも全米トップクラスのラム専門barで高い評価をされているのがとても嬉しかったので、このニュースが2015年の”酒に関する10大ニュース”のトップです。

生産関係者ではないのですけどね。w