去年の秋からとある事情により、村上春樹作品(エッセイ、ドキュメンタリーを除く)の完全読破計画を実行中で、あと3作品を残すのみとなりました。
ただ、ここにきて、なんとなくゴールして終わってしまうのが惜しい気持ちと、ちょっと一旦一息いれようかということで、ミステリーを読んだのです。古典的名作なので、知っている人も多いだろうハリイ ケメルマンの「9マイルは遠すぎる」。
これは以前に読んだことがあって、それがハードカバーだったのかは忘れてしまったのだけど、本屋で偶然に文庫本を見つけたので思わず買ってしまいました。
簡単に説明すると、これはミステリーの短編集で、表題の「9マイルは遠すぎる」はハリイ ケメルマンの処女作。ページ数はなんとたったの18ページしかありません。ところがこの短い話は、ミステリー史上トップクラスのプロットだと言われているのです。
さわりだけいうと、こんな感じ。
群検事の”私”が語り手でシャーロックホームズでいえば”ワトソンくん”。友人の英文学教授、通称ニッキーが役柄的にはいわゆる”安楽椅子の探偵”でホームズ役。
彼らはチェス仲間で、ある日、田舎のレストランで食事をしています。そこでの話題は、”ある短い文章から、色々な推論を仮定していくことが可能だ”ということ。この話題は食事が終わっても続いていきます。レジでチェックを済ませているときも。
「では試しに単語10から15個程度の文章を何かいってみてくれ、その文章から僕がいくつかの推論をお目にかけよう」
と,ニッキーが”私”にいいます。
レストランを出て帰る道すがら、”私”は
「では、9マイルもの道を歩くのは容易ではない。ましてや雨の中となるとなおさらだ”ではどうか?」
と,いいます。
ニッキーはたったこれだけの文章(実際は会話)から、殺人事件が起こったことを推理し、しかも犯人が今何処にいるかさえ当ててしまうのです。
なかなか面白そうなプロットでしょう?
ただ僕は、この話は以前に読んでいたので新鮮ではなかったし、むしろ他の短編(この二人が出てくる一連のシリーズ)を読み終えて、つまり一冊を読み終えて、まったく違うところに興味をもったのです。
この短編集には序章があって、作者がいかに長い年月をかけて、「9マイル…」を完成させたかと、ミステリーの王道は短編であり、そのプロットの斬新さだというような事が書かれているのです。
つまり彼、ハリイ ケメルマンは長編のミステリーは読み手をわざと違う結論に導く為に敢えて余計な情報を織り込み、その結果、作品をつまらなくする。短編ミステリーこそが謎解きを純粋に楽しめるツールなのだといっているのです。
さて、この一冊はニッキーシリーズとして作品発表した時系列の順に短編が進んでいきます。つまり”9マイル”がトップにあり、その後に7作の短編が続くのですね。
僕が興味深かったのは、プロットの面白さでは間違いなく”9マイル”が群を抜いて素晴らしい。なのに読後感としての面白さは後の作品になる程、より面白く感じてくる点。
なぜだろう?これはハリイ ケメルマンの”プロット命説”に矛盾してしまう。
もしこの感想が僕個人の選り好みによるものなら仕方がないのだけれど、そうでないなら幾つかの原因が考えられます。
「9マイル…」は処女作なので、順を追って作者の文章力があがった。
同じような理由で、翻訳者がこの世界観を体得して、後になる程、テンポよく訳され読みやすくなった。
この2つも”アリ”だとは思うのですが、おそらくいちばん納得いくのは、読み手である僕自身がこの世界観に慣れ親しんで、キャラクターに愛着を持ち得たからではないでしょうか。
後になるほどに、行間に書かれてはいない彼ら登場人物の息遣いが聞こえ、推理には関係のない無意味な動作が見えるようになってくるのです。
そういう意味において、序章のハリイ ケメルマンの見解、短編&プロットこそミステリーの王道説は、否定はしないまでも、あまりに短いとせっかくのプロットがもったいない気がしてきます。もし彼が晩年、「9マイル…」をセルフ リメイクしたらもっと面白くなったのではないかという気もするのですが、こんなことをいうとファンに叱られるかもしれませんね。
さて、今夜からは村上春樹に戻ります。
次はアフターダークです。
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