ホームページ

〜Bar月読ホームページ〜
http://bartsukuyomi.wix.com/home

2014年3月20日木曜日

限りなく無力な一滴

アンゴスチュラ・ビターズ
おそらく何処のBarにも必ず置いてあり、にもかかわらず誰にも注意を払ってもらえない地味で知名度の低い酒。ボトルの大きさも15センチくらいとかなり小さめのサイズだ。味は…苦い。

実際、その用途は酒とすら呼べない。
”彼”の仕事の殆んどはマティーニやマンハッタンといったカクテルの香り付け。その制作過程において”一滴”だけ使用される。

元々は健胃剤として調合された薬=薬草酒の一種だ。
Barで悪酔いした時や腹痛の時にチェイサー(ロックやストレートなどアルコール度数の高い酒を飲むときに横に添えられる水又はそのグラスの事)に数滴落として無償で提供される。ただその効能が現在でもあるのかどうかは甚だ怪しいと思われる。おまじない、悪く言えば気休めの一滴に過ぎない。やはりアンゴスチュラ・ビターズはどこまでいっても地味な酒なのだ。




ある日の深夜―――閉店間際に彼女は店に入ってきた。”彼女のお客様”を伴って。彼女は祇園のクラブで働いている、古くからの僕の友人だ。ただし歳は僕よりもかなり若いと彼女の名誉のためには言っておこうか。

童顔でまだ少女の面影を残してはいるものの、年々と化粧は上手くなり、身に付けているものは少しづつ煌びやかになってきている。
何より彼女の”接客態度”が最も時間の経過を感じさせたのかもしれない。



昔、彼女がまだ学生だった頃、月読に来てこんなことを言っていたのが印象に残っている。

「ねえねえマスター、私ね、ヤモリが好きなんですよ。夜に窓から外を眺めているとね、どこからともなくペタペタとヤモリがでてきて羽虫をパクッって食べるんですよー。 ね?! カワイイでしょう? でも先月一人暮らしを始めて引越ししたんで、もうヤモリに会えなくなっちゃったんですよねー」

「それは残念やったねえ…」と僕。

「でもね、昨日の夜、新しい部屋の窓から外を眺めてたら出てきてくれたの、ヤモリが!! ねえ、すごいでしょう!! 私に会いに来てくれたのかなあ…」

そう言って彼女は童顔に輪をかけたようにしてケラケラ笑ったのだった。




―――今夜の彼女はいつになく酔っていた。もとからそんなに酒に強いほうではない。それでもマメに、それでいて強引さを感じさせない程度に”彼女のお客様”に対して、しきりに酒のお代わりを勧めているのはこの店、つまり月読に、ひいては僕に対して少しでも売上を揚げさせてやろうという心遣いなのだろう。ただ、お客様に勧めるということはイコール、自分も飲まなければならないという暗黙のルールがある。


「ねえ、もう一杯飲みましょうか?」

また彼女はお客様に勧める。彼が断る筈も無く、ついに4杯目のオーダーが通った。もちろんここに来る前にも飲んできていることは明白だった。

彼女ひとりだったら、「そんなに無理して飲む必要はないよ」と”友人”として言えただろう。でも今、彼女は”仕事中”なのだ。興醒めしてしまうような野暮なことは言えない。

こんな時、いったいバーテンダーに何が出来るだろう? いや、実際に何も出来はしないのだ。ただ彼女と彼女のお客様が話に夢中になっている間――その隙に作りかけのオンザロックから手を放して、水を足すふりをしながらアンゴスチュラ・ビターズを取り出し、彼女のチェイサーに一滴だけそれを落とす。

それは限りなく無力に等しい一滴に違いない。


思うにBarには華やかなカクテルや高価なウイスキーが無数に存在する。けれどもしバーテンダーの仕事を最も象徴する酒は何かと問われたならば、この無力で地味なアンゴスチュラ・ビターズこそが、もしかしたらそれに相応しいのかも知れない。

無力にも等しい行為を誰にも気づかれることなく行う。けれどもそこに”意味”だけは存在する。


今回も”気づかれず”に終わるはずだった。
ところが僕はついうっかり忘れていた。彼女がとても聡明であり、記憶力がいいことを。

以前、彼女は僕に尋ねた事があったのだ。バックカウンターに置かれている小さく地味なアンゴスチュラ・ビターズを指さして、「あれは何?」って。

あの時、一通りアンゴスチュラ・ビターズの説明をした後、彼女は「へぇー、なんだかヤモリみたいなお酒ですね!!」と言った。

それはアンゴスチュラ・ビターズのサイズが小さいことからの連想だったのか、その存在感になにかしらの共通項を見つけたのかは分からない。


そんなことがあったものだから、彼女がアンゴスチュラ・ビターズ入りのチェイサーを口にしたとき、その一滴に込めたメッセージを彼女はすべて理解したのだろう。それからほどなくして彼女はタクシーを呼んだのだった。



”お客様”を先に乗せて彼女がタクシーに乗り込む際、僕は彼女にだけ聞こえるようにこう言った。

「今度またゆっくりおいで。酒は飲まなくていいから紅茶でも…」

すると彼女は顔を上げて一瞬だけ真顔になり、そのあと少し恥ずかしそうに笑った。その時だけは以前にヤモリの話をした時のような少女の顔だった。

次の日、彼女の二日酔いがどれ程のものだったか?

―――アンゴスチュラ・ビターズが効いたかどうかは未だに聞いてはいない。



2014年3月13日木曜日

十三夜

見上げれば東の空に月ひとつ

満月ならば愛でられように
三日月ならば見取られように
満に足らず 若きに戻れず

昇ってみたはいいものの
何処に落つるか思案六歩

 彷徨うように歪みながら
十三夜の見限られた月ひとつ


2014年3月10日月曜日

ノルウェイの森とマティーニと

ちょっとした用事で久しぶりに実家に帰り、聴きたかったレコードを持ち帰るついでに本棚にあったハードカバーの”ノルウェイの森”を手提げ袋に詰め込んできた。


ちょっとした用事で久しぶりに実家に帰り、聴きたかったレコードを持ち帰るついでに本棚にあったハードカバーの”ノルウェイの森”を手提げ袋に詰め込んできた。

 大学生の時、失恋した。
その時の彼女が”別れ際”にくれたのが、このノルウェーの森だった。
 当時、物語の内容に何か意味やメッセージがあるのかと慎重に読んだのだが、わからなかった。今だにそれはわからない。そもそも意味なんて無かったのかも知れない。
まあ、今となってはどうでもいいことなのだけど。

店のテーブルにノルウェイの森を並べてみた。相伴する酒はドライマティーニが相応しいように思う。


 僕は村上春樹氏の作品の面白さがよくわからない。喪失感というのは現実だけで沢山で、本を読んでまで味わいたくはないと思ってしまう。
 村上春樹自身が口にしてはいないが、氏のファンがよく使う”自分探し”というフレーズも苦手だ。

 村上春樹氏のエッセイは好きなのだが、物語になると途端に難解になる。ある程度は解るのだけと、その向こうにある筈の扉がどうしても開かない。或いは近親憎悪に近いものかも知れない。

 誤解されたくないのだけれど、キライなのではなく、ワカラナイ、のだ。

 難しいな、と思う。

それ故、どうして彼の作品はあんなに売れるのだろうと不思議で仕方ない。ま、自分の読解力がないだけの話かもしれないけど。

それと同様にドライマティーニの味もよくわからない。
 美味しさのバランスを無視した極端な禅問答のようなレシピで、どうしてあんなに人気があるのだろう?
 強いアルコールに弱い筈の日本人の多くが、あの強いマティーニを人気No.1に押し上げることがとても不思議で仕方ない。

そして僕はこの仕事をしているのにもかかわらず、未だにドライマティーニの美味しさが理解出来ずにいる。

きっとこちらも”扉の向こう”があるのだろう。

ただやはり、村上春樹にしてもドライマティーニにしても、その”人気”に対してはかなり懐疑的ではある。

まあ、村上春樹に対しては失恋した逆恨みが、若干、無くもない…かも。(笑)