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2016年7月16日土曜日

ロングバージョン

「ねえ、知ってる? タンカレーの瓶はロンドンの消火栓の形なんだって!」

手に持ったジンライムのグラスを眺めながら、気を取り直したように彼女が再び話しはじめた。

「…ああ、そうだね。けっこう有名な話だよ、それ」

僕は素っ気なく答え、そしていつもと同じように少しだけそれを後悔する。

僕の目の前にあるグラスは、もうほとんど飲み干されていて、彼女の手の中には氷が半分溶けて水割りになったジンライムが、カラカラと何かの死骸のような音をたてている。

「…でもさ、消火栓を真似たなら、どうしてタンカレーの瓶は緑色なの? どうせならちゃんと赤にすればよかったんじゃない?」

彼女はまるでタンカレージンの担当責任者が僕であるかのように、僕の目をまっすぐに見据えながらそう問い詰めてきた。もしこれがチェスのゲームだったら、そのあとに「チェックメイト」が聞こえたはずだ。

「それはね、酔っぱらいが間違って消火栓の中身を飲んでしまわないためなんだよ、きっと」

僕は彼女の目を見ずにそう答えた。



  シングルプレイのつもりが、いつか気づけばロングバージョン
             似たもの同士のボサノヴァ、ちょっとヘヴィめなラヴソング




タンカレーの”ロングバージョン”、『タンカレーラングプール』。そのままでライムと生姜の風味が特徴。瓶もノーマルのタンカレーより少しだけ大き目です。







暁を遊ぶ猫

「おもしろうてやがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」  芭蕉

この俳句の意味は、楽しく華やかな鵜飼が終わったあと、たまらなく悲しい気持ちになるという”祭りの後の寂しさ”を詠んだもので、とくに難しいものではない。

でも僕はこの句の意味を長い間、誤解していて、「鵜飼を最初に見物したときは楽しい気持ちになるが、やがて慣れてくると鵜が人間に利用されて鮎を採っても吞みこめず、吐き出さなくてはならないことが可哀想に思えてくる」という風に理解していた。


この夏の季語のはいった句を、蒸し暑い梅雨の最中に思い出したのには訳がある。

寝息についてときどき思う。

自分の寝息を聞くことはできない。だからといって、無条件で誰かの寝息を聞くこともできない。道を歩いている知らない女の子に声をかけて、「あなたの寝息を聞かせてください」なんて言おうものなら悲しい結末が待っているのでやめた方がいい。


寝息を聞く、という行為。

それは自分に気を許してくれる、近しい人がそこにいる、という状況に他ならないのだ。


暗い部屋の中で感じる微かな息遣いと小さな鼓動。それはその人の存在の証であり、ある種の安心感だ。でもそれと同時にいつか必ず闇の中に溶け込んで消えてしまう種類の音なのだと心のどこかで確信している。そして現実に静寂だけが自分の周りに残るのだろう。(もちろん自分の方が早くそうなってしまうことだって往々にしてあるのだが)

そう思うと真っ暗な部屋の中で聞こえてくる微かな寝息が、いまにも止まってしまいそうで儚く思えて、生きていてくれることが”実感として”(つまり概念ではなく)奇跡のように思える数少ない時間なのだと思う。


ある日の早朝。

うちの寝室のガラス窓の向こうにはベランダがあり、たまにそこでノラ猫の黒ちゃんとトミーが「フーーッ!」と唸り声をあげながら縄張り争いをくりひろげていることがある。

まったく迷惑な話で、喧嘩してダミ声あげるなら昼間にやってくれよ、と思う。世間は朝でも、こっちは深夜営業でこの時間はまだ真夜中なんだから…とムニャムニャいいながら目を覚ます。

少しずつ頭が冴えてくると、猫の唸り声はベランダで繰り広げられている喧嘩ではなく、横の布団で気持ち良さげに眠っている”近しい人”から発生しているものだと分かった。(黒ちゃん、トミー、疑って悪かった。今度、メザシあげるからね)

奇跡も大き過ぎると、平和な日常を飲み込んでしまうのだ。

「…おもしろうてやがてかなしき寝息かな」



ビトウィン・ザ・シーツというカクテルがある。本来は男女間で「さあ、ベッドに行きましょ」という艶っぽい意味のカクテルなんだけど、まあ日本人でこのカクテルを使いこなせる人はいないだろうな。(これまで10年以上、オーダーを伺ったこともないしね)

実際的には寝息を聞きながら、あるいはそれを思い出しながら、奇跡に感謝して飲むくらいがちょうどいいのかも知れない。出来ることなら、小さな奇跡を。





2016年7月5日火曜日

それは今年はじめてセミの声を聞いた午後

暑さで倒れそうな午後、それでも夕食の買い物に出かけ、這々の体で家に帰る道すがら。

小学生の一年生くらいかな? 二人の女の子が自分の顔の倍くらいあるプリントを広げながら、”花は咲く”を大きな声で合唱しながらこちらに向かって歩いてきて、やがてすれ違った。

その歌声はとても楽しそうだった。

♪花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
私は何を残しただろう♪

…っていうあの曲。

今の音楽の教科書に載っているのかな?

そういえば僕が中学生のとき、フォークソングが好きな先生が音楽の授業で教科書を使わずに、自分の好きな曲を藁半紙(僕の育った地方ではザラバン紙と言ってた)に刷ってきてよく唄わせていた。”なごり雪”、”旅立ち”とか、”あの素晴らしい愛をもう一度”とか…

音楽の授業でいちばん覚えているエピソードといえば小学6年生(5年生?)のときのことだ。毎年恒例の校内合唱コンクールで、僕のクラスにだけ、あるトラブルが持ち上がった。

どこもそうなのかも知れないけど、僕の小学校では音楽の授業だけは担任の先生が教える他の教科と違って”音楽の先生”というのがいた。

音楽の授業は普通、気楽に楽しく過ごせるもののはずだ。ところがこの先生、年配のかなりヒステリックな女性でとにかく怖かった。授業の間はみんなピリピリした緊張感を強いられ、どちらかというとかなり苦痛な時間だったのだ。

あのとき、いったい何が原因だったのかもう忘れてしまったけど、僕等のクラス全員がこの先生の機嫌を損ねてしまって、合唱コンクールの課題曲、自由曲ともに「私はもうあなた達には教えません、勝手にやりなさい‼︎」と放棄されてしまった。

合唱コンクールの練習は通常、音楽の授業時間に行なわれるはずが、この先生はそれからずっと通常の教科書に沿った授業を行ったのだ。つまり僕等のクラスには合唱コンクールの練習する時間を与えられなかったわけだ。

普通、そんなことしないでしょ?
小学生相手に本気だしてさ。

まあ、僕等もすぐに謝りに行けばよかったのかも知れないけど、そうしなかったしお互い様かも知れないけど。(でもみんな心底、あの先生が怖かったんだと思う)

で、それからどうなったかというと…

面白いもので、こんな状況のときほどクラスは一致団結する。この年頃は男女がわりと反発しあってなかなか相容れないものだけど、このときは違った。

昼休みや放課後の短い時間に、みんな集まって合唱コンクールの練習をしたんだ。教室の片隅でピアノの伴奏なしで、男女それぞれのコーラスパートを決めたりして…

で、テレビドラマだと、これで優勝したりするのだろうけど、現実はそう甘くはないからね、結果はいちばんにはなれなかったけど、印象に残るいい思い出にはなった。何より担任の先生がすごく喜んでくれたしね。

あのときの課題曲はもう覚えてない。自由曲はこのトラブルが持ち上がってから、
「さてどうしよう? 」
「じゃあ自分たちだけでなんとかしよう!」
となったとき、担任の先生が提案した曲だった。たしか割と強引に決められたようにも思う。

…自分が好きな歌だったから、唄わせたかったんだろうな、”戦争を知らない子供たち”

♪おとなになって歩き始める
平和の歌をくちずさみながら
僕らの名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ♪

あれから30年以上が過ぎ、僕等はいつの間にか大人になって、たしかに歩き始めはした。

でも平和の歌を口ずさんできただろうか?
考え、選んで、行動し、責任をもってきただろうか?

あのときのクラスのように、またひとつにまとまれたらいいのにな、と思う。

すれ違った女の子たちのうち一人は、どうやら家に帰ったらしく、僕が振り向いたときはもうすでに一人の女の子だけだった。

その子はたった一人になっても、大きな声で最後まで歌いきり、それからすぐに元気よく駆けだしていった。



私は何を残しただろう。

あなたたちの未来に花が咲きますように。








2016年7月1日金曜日

バックバーの風景

バーテンダーが初めてのバーに行くと、ほとんどの場合その店のバーテンダーに”同業者”であることがバレてしまう。

…バックバーという言葉を知っているだろうか? バーでカウンターに座るとそこから見える向い側の壁(の棚)にウイスキーなど、多種多様な酒がこれでもか!ってくらいに並んでいる光景、あれがバックバー。

同業者の場合、ドアを開けて入ってくると、まず店全体を眺める。でもそれは一瞬だけで、そのあと視線はずっとバックバーに注視されたままになる。カウンターに座るために椅子を手前に引くときも、腰掛けるときも、とりあえず何かをオーダーするときも、ずっとバックバーを見ている。仮に見ていないときがあったにせよ、意識は常にバックバーだ。この時点でだいたい80%くらいは”ご同業”と判別されてしまう。

ではそこになにを見てるのか?

「あの酒がある!」

「あんな酒も置いてある!」

「おおっ、あんな高級酒が…」

「むうっ、あの酒は見たことないぞ‼︎」

…とか、まあ、そんな感じだろうか。

でもいちはん観るのは全体を通したその人(店)のセンスだと思う。よほど大きな店ならともかく、一般的にバックバーのスペースは限られていて、置ける酒の本数も決まっている。そこにどういった意思やある種の哲学を踏まえて酒をセレクトしているのか?…ということを、たぶんみんな見てるんだと思う。

このとき、たとえば自分が欲しかったのに、どうしても手に入らなかったボトルがそこに並んでいたとしても、そこに少しばかりの羨望があったとしても、それは悲喜こもごもなとても心地の良い刺激であり、自分自身は時間の流れの外にいて、柔らかな空気の中に包まれているようなとても幸せな時間なのだ。

実は昨日、初めてのバーに行った…わけではなく、京都駅の伊勢丹内にあるギャラリースペース”えき”で行われている安西水丸展に行ってきた。



僕はだいたい美術館に行くとひどく疲れてしまう。優れた作品に向き合うと(概ね絵画のことだけど)、そこから発せられるエネルギーみたいなものに正面から対峙しなければならないので、こちらもかなりのエネルギーを消費する。そしてあたりまえだけど、ことごとく打ち負かされてしまうので、出口を抜けるときはもうクタクタなのだ。

だから心身ともに良好なときにしか美術館には行かないし、ヨメに誘われても断ったり、渋々つきあって怪訝な顔をされたりして、最悪の場合は交戦状態となる。w(たぶんよほど不機嫌そうな疲れた顔をしているのだろう)

ところが昨日の安西水丸展はそうはならなかった。それがイラストレーションだったから…ではないと思う。もちろん作品にそれだけの力がなかったから、でもない。

僕にとっては滅多にないことだけど、出口のところまできて、もう一度引き返して最初から観てまわった。(小さなギャラリーを別にして、こんなことはいつ以来だろう!)

2度目の最終コーナーのあたりでさすがに歩き疲れて、設営されていたベンチに腰掛けながら、「多才な人だなあ…」とか、「なんであの作品をみて泣きそうになったんだろう?とくに好きなものではなかったのに…」とか、ぼんやりと考えていた。そしてもう一度遠回しに作品を眺めたとき気がついたんだ。

「あ、バックバーを眺めているみたいだ」