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2016年7月16日土曜日

暁を遊ぶ猫

「おもしろうてやがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」  芭蕉

この俳句の意味は、楽しく華やかな鵜飼が終わったあと、たまらなく悲しい気持ちになるという”祭りの後の寂しさ”を詠んだもので、とくに難しいものではない。

でも僕はこの句の意味を長い間、誤解していて、「鵜飼を最初に見物したときは楽しい気持ちになるが、やがて慣れてくると鵜が人間に利用されて鮎を採っても吞みこめず、吐き出さなくてはならないことが可哀想に思えてくる」という風に理解していた。


この夏の季語のはいった句を、蒸し暑い梅雨の最中に思い出したのには訳がある。

寝息についてときどき思う。

自分の寝息を聞くことはできない。だからといって、無条件で誰かの寝息を聞くこともできない。道を歩いている知らない女の子に声をかけて、「あなたの寝息を聞かせてください」なんて言おうものなら悲しい結末が待っているのでやめた方がいい。


寝息を聞く、という行為。

それは自分に気を許してくれる、近しい人がそこにいる、という状況に他ならないのだ。


暗い部屋の中で感じる微かな息遣いと小さな鼓動。それはその人の存在の証であり、ある種の安心感だ。でもそれと同時にいつか必ず闇の中に溶け込んで消えてしまう種類の音なのだと心のどこかで確信している。そして現実に静寂だけが自分の周りに残るのだろう。(もちろん自分の方が早くそうなってしまうことだって往々にしてあるのだが)

そう思うと真っ暗な部屋の中で聞こえてくる微かな寝息が、いまにも止まってしまいそうで儚く思えて、生きていてくれることが”実感として”(つまり概念ではなく)奇跡のように思える数少ない時間なのだと思う。


ある日の早朝。

うちの寝室のガラス窓の向こうにはベランダがあり、たまにそこでノラ猫の黒ちゃんとトミーが「フーーッ!」と唸り声をあげながら縄張り争いをくりひろげていることがある。

まったく迷惑な話で、喧嘩してダミ声あげるなら昼間にやってくれよ、と思う。世間は朝でも、こっちは深夜営業でこの時間はまだ真夜中なんだから…とムニャムニャいいながら目を覚ます。

少しずつ頭が冴えてくると、猫の唸り声はベランダで繰り広げられている喧嘩ではなく、横の布団で気持ち良さげに眠っている”近しい人”から発生しているものだと分かった。(黒ちゃん、トミー、疑って悪かった。今度、メザシあげるからね)

奇跡も大き過ぎると、平和な日常を飲み込んでしまうのだ。

「…おもしろうてやがてかなしき寝息かな」



ビトウィン・ザ・シーツというカクテルがある。本来は男女間で「さあ、ベッドに行きましょ」という艶っぽい意味のカクテルなんだけど、まあ日本人でこのカクテルを使いこなせる人はいないだろうな。(これまで10年以上、オーダーを伺ったこともないしね)

実際的には寝息を聞きながら、あるいはそれを思い出しながら、奇跡に感謝して飲むくらいがちょうどいいのかも知れない。出来ることなら、小さな奇跡を。





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