「北極へ行くには、どっちの方向ですか?」
こういったのは、大学時代につき合っていた彼女だった。かれこれもう30年くらい前の話だ。
それは映画の上映開始時間を待っている間、喫茶店で時間つぶしをかねて、遅めの昼食をとっているときだった。
僕はこれから観るであろう映画についてぼーっと考えていた。だから彼女が話しかけている内容についてはずっと右から左に聞き流していたので、間の抜けた返答をして少しばかり彼女をムッとさせてしまった。
えっ、 北極? 南極ならまだしも、北極にいくのは難しいと思うけど…
「違うの、だから罰ゲームなのよ!」
つまりこういうことだ。
それは彼女と同じ大学に通う女友達5人で、何かしらの簡単なゲームをする。ジャンケンでもいいし、あみだくじみたいなものでもいい。そして負けた人が、あらかじめ決められていた任意の場所(なるべく現実離れした場所)にいく方法を、通行人を適当に捕まえて、その人に食い下がって尋ねるという、あまり意味のない暇つぶしのゲームをしたというレポートだった。
”暇つぶし”なんて、考えてみればずいぶんともったいない話ではある。
でも当時、僕らは大学生だったし、ほとんどの大学生がそうであるように、時間は無尽蔵にあると思っていた。それは水道の蛇口を捻れば水が出てくるのと同じように。そして時々、朝目覚めると(僕の場合、往々にして昼過ぎだったが)、その溢れ出た水の中で溺れそうになっていた。でも今では砂漠の中で一滴の水を探し歩いているような毎日だ。ツケは必ずまわってくる。対価は支払わなくてはならない。
吉田拓郎がマークIIの中で
『年老いた男が川面を見つめて、時の流れを知る日が来るだろうか』
と歌っているが、今その心境が少しは分かるような気がする。
ただ彼女はそんな時間の洪水の中で、ただ流されて漂うだけのボウフラ学生とは違って、何にでも最短距離を通って目標を達成できるよう、キチンと計画を立てて、それをコツコツ実行するような才女(いわゆる”生徒会長”のような)タイプだった。
彼女はまた決断の早さと行動力も優れていて、たとえば思い立ったらシベリア鉄道に乗り込んで、大陸縦断の一人旅をするようなことも平然としていた。
これも今になってよく分かるのだけど、”世界の広さ”というのは、実際にそこにいって体感したものだけが獲得するものであって、たとえばどれほどグーグルアースで各地の隅々をながめたとしても、それは知識だけでその世界の”広さ”を獲得したわけではないのだ。
そういった意味において、彼女はすでに一般的な学生よりも、広大な”世界”を獲得していたし、それに対して僕といえば、地方都市の狭い井戸の底で日々、右往左往する”小さな世界”の蛙(カワズ)でしかなかった。
そんな彼女がその場のノリとはいえ、友達とバカバカしいゲームをすることもあるんだと妙に感心したのと、それと同時にいつも”最短距離”を選択し、広い世界を獲得し続ける彼女が、さしたる目標もなく、ダラダラと時間を浪費している、遠回りタイプ(”足踏み”というべきか?)で、小さな世界に満足して過ごしている僕と一緒にいることについても、それはとても不思議なことだった。
彼女の話によると、ゲームの最初のお題は『万里の長城』だった。何回か彼女以外の友達が負けた。その度に通りの通行人を捕まえて、…それは得意先まわりの会社員だったり、散歩中のお年寄りだったりした… その場所の方角と、そこにたどり着くまでの交通手段を赤面しながら尋ねたらしい。(彼女がいうには実際にやってみるとかなり恥ずかしいということだった)
彼女たちの暇つぶしに捕獲された気の毒な通行人のほとんどは、困惑したり、ときには苦笑いしながらも、その無意味なイタズラに”真面目”につき合ってくれたようだった。
そしてお題の場所にたどり着く方法(交通手段とか)の返答の仕方ははそれぞれ違ったけれど、方向を尋ねたときだけは、皆共通して地平線に近い低い空を眺めて、その場所の在るべき方角を腕を上げて指差した。
ゲームというものはクリアーされ、進行していくごとに難易度は高く設定されていく。
最初のお題の『万里の長城』が『ガンダーラ』になり、さらに『スフィンクスのいる砂漠』になった。(僕としてはガンダーラの方が超難問に思えるのだが)
そしてとうとう彼女が負ける番が回ってきた。そのときのお題がまさに『北極』だった。
映画の上映開始時間がせまってきたので、僕は注文していたサンドイッチと緑色のクリームソーダを少し急いで食べる必要があった。僕は幼少期からの習慣みたいなもので、喫茶店でサンドイッチとクリームソーダ(緑のものに限る)を注文するのが好きだった。もちろん今ではもうしない。
そして”サンドイッチとクリームソーダの組み合わせ”と同じくらい、映画が始まる前のCM、つまり”上映予定映画のダイジェスト”を観るのが好きなのだけど(こちらは今でも好きだ)、その時間と引き換えにしても彼女の話の続きを聞きたかった。後回しではなく、今すぐに。そこには何かしら予感めいたものがあったのかもしれない。
彼女が選んだ通行人は30代の”たぶん”若い植木職人だったらしい。”たぶん”というのは、彼女が考える植木職人というのは、だいたい50歳以上をイメージしていたし、見かけがどんな服装をしていて、どんな道具を持ち歩いているのかよく知らなかったからだ。
その若き通行人は作業用の黒っぽいグレーのジャンパーを着てジーンズを履き、肩に大きな鞄をぶらさげていた。腰に巻きつけられたベルトには何種類かのハサミがかけられていて、手には竹ぼうきを持っていたので、”植木職人”とそう判断したのだった。
「あのう…ちょっとすいません…」
彼女は気の毒な若い植木職人に声をかける。
若い植木職人は自分に声をかけられたのかを、いまひとつ確信がもてないまま、返事をせずに彼女の方を振り向く。
「ええっと、北極に行くには、どっちの方向ですか?」
(きっと彼女は顔を赤らめながら尋ねたのだろう)
そして若い植木職人は、間違いなく自分に声がかけられたのを認識できて少し安心するも、すぐまた戸惑うことになる。
「えっ? 北極…ですか? シロクマのいる、あの北極?」
「はい…その北極です…スイマセン…」
若い植木職人は彼女の態度をみて、すぐさまそれが何かのイタズラやゲームの類だと理解したようだった。
ただ彼はそれまでの通行人とは違う方角の示し方をした。つまり腕を上げ、その方向を指差したりはしなかった。
「…それだったら、北極星のある方角ですね。春夏は北斗七星を、秋冬はカシオペア座を眺めるといいですよ」
でも、それでは夜しか”歩けません”よね?
「だったら昼間は切り株の年輪をみてはどうかな。北極の方角は間が詰まってるから。ところで北極には歩いて行くの? ずいぶんと時間がかかるね」
若い植木職人は笑いながら彼女に尋ね返す。
次の質問を先取りされた彼女は少し慌てながら、答える。
「そうなんです。それ以外の方法が思いつかなくて。北極まで行くのに、どうすればショートカットして”最短”で行けますか?」
若い植木職人はほんの少しだけ考えて、彼女に自分が手に持っていた竹ぼうきを差し出した。
「よかったら、これ使ってみるかい?」
ゲームはその回で終了した。
「どう? 素敵でしょう!」
ここまで話してから、彼女はうっとりとした目をして(少なくとも僕にはそう見えた)、喫茶店の窓越しに通行人を眺めた。若い植木職人はそこには居ない。おそらく彼女が偶然また彼に出会う確率もまずあり得ないだろう。それでも僕は彼に猛烈なヤキモチを焼かずにいられなかったし、同時に不吉な未来を確信したのだった。いつか必ず、それも近い将来、広い世界観を持った、最短距離を行く”大人な誰か”に彼女を奪われてしまうのだろうと。そして嫌な予感というのは、いつもだいたい当たるのだ。
そしてその後、僕たちは映画館に向かった。
主人公の少女がホウキに乗って空を飛ぶ映画…『魔女の宅急便』を観るために。
やがて彼女は大学を卒業して(僕は半年間の留年をして、ちょうどその頃フラれた)、優良企業に就職して、最短距離で出世をして、最短距離で外国人と恋に落ちて結婚し、彼の住む北欧へと嫁いで行った。
北欧に行くには、北極回りの航路で飛行機に乗ったのだろう。最短距離をとるのがきっと今でも彼女の流儀なのだ。
ちょうどカクテルに『ポーラ・ショート・カット』というネーミングのものがある。ラムベースの赤くて、強くて、少しだけ甘いカクテル。
1957年にコペンハーゲンと東京間の北極回り航路開設を記念したカクテル・コンペで優勝したものだ。(念のために説明すると、たとえば日本からヨーロッパに行くとき、北極回りをする方が航路が短く、つまりショートカットできる)
そしてつい最近のことなのだが…
休日、僕は家を出て、北の大通りに昼食をとるために蕎麦屋に出かけた。ミシュランで星をとったので、なかなか入るのが困難になった店なのだけど、その日は僕にしては珍しく並ぶのを覚悟してそこに向かった。
その途中、あともう少しで件の蕎麦屋に着くというところで、不意に背中から声をかけられた。若い女性の声だった。
「あのう…小世界はどこですか?」
あれから30年あまり過ぎている。
まだそのゲームをしているやつがいるのかと、信じられなかったが、振り返るとそこには現実に若い女性が確かにいた。
それにしても”小世界”ってなんだ?
『万里の長城』から何回ゲームを続ければ『小世界』なんて難易度の高いところにたどり着くのだろう。
「これに乗って自分で探してこい!」
と、竹ぼうきを叩きつけてやりたかったが、僕は竹ぼうきを持ちながらミシュランで星をとるような小洒落た蕎麦屋に行ったりはしない。いくら井戸の中の蛙でも、そのくらいの常識はわきまえているのだ。
よく見るとその女性は大きなスーツケースを手に持っていた。もう片方の手には紙切れ。それは地図であり、その女性はアジア系の外国人旅行者だった。
地図には”正確”に読むと『小世界旅社』と書いてあった。そういえば僕の住んでいる家の南の大通りの方に、そんな名前の民泊のような場所があったのを思いだした。ただそこは入り組んだ細い路地にあり、僕の語学力では外国人にそこを説明するのは不可能に思えた。(もしかしたら日本人にさえ難しかったかもしれない)
仕方がないので、目前の蕎麦屋に背を向けて、
「れっつごー、つぎゃざー」
ということになった。
その旅行者は台湾から来たようだったが、そのくらいしか聞くことができず(あとは何日くらい日本に滞在するのかを聞いた気がする)、それ以外は黙って目的の”小世界”まで歩いた。
その沈黙の間、僕はあれからいったいどのくらい自分の世界が広がったのたろうか? と、これまでに流れ去った川の水のことを思った。それとあのウイットに富んだ若き植木職人は今頃どうしているのだろうか? というようなことを。
歩くこと15分くらいで目的の『小世界旅社』に着いた。台湾からの旅人はお礼をいったあと、出迎えた彼女の旅行仲間たちと小さな世界の入り口にある暖簾を潜って中に消えていった。僕は境界線のような路地に1人残され、家を出たときよりも更に遠くなった小洒落た蕎麦屋のことを思い、そして途方にくれた。
結局、蕎麦はあきらめ、小世界の裏側にある、大通りのタコ焼き屋にいってタコ焼きとイカ焼きが入った”Aセット”を注文した。ここはたぶんミシュランとは永遠に無縁だろうけど、蕎麦屋と違って待たなくてもすぐ買えるのがいいところだ。川の水は残り少ない。
静かな昼下がり。Aセットの包みをぶら下げながら家に帰る途中で考えた。結局のところ、今日、僕は遠回りをしたのだろうか? それともショートカットしたのだろうか?