★2015 11/23~11/25(月曜日~水曜日)は臨時休業させて頂きます。ご迷惑をおかけ致しますがご了承の程、宜しくお願いいたします。
SINCE 2004
京都の繁華街から外れた場所。
ジャズレコード、蓄音機、シーメンスのスピーカー、ビリヤード台、昭和歌謡、古書…シングルモルトをはじめとする蒸留酒とスタンダード・カクテル。
外の世界とは少しだけ時間の流れが違う場所。
詳しくはオフィシャルサイトをご覧下さい
2015年11月22日日曜日
2015年11月20日金曜日
その先はドーナツ?
その日の午後、僕は家の近くにあるローカルなショッピングモールにいた。相方(嫁さん)が出張で留守なので夕食の食材を買いに来たという理由で。
レジで支払いを済ませたあと、まっすぐ帰らずに同じショッピングモール内にあるミスタードーナツに向かった。安売りのキャンペーンをしているらしく、僕が買い物を済ませる前に通りがかったときから短い列ができていた。
ミスタードーナツは過去に何度も食品衛生管理の問題を起こしているし、酷い例では外部業者の告発を口止料を払ってもみ消し、そのまま件の商品を売り続けたのが発覚し裁判沙汰になったこともある。それなのに今もドーナツは売れ続け、キャンペーン中は行列までできるのだ。僕にはそれが不思議でならない。(そういった例はいくつもあるのだろうが、たまたまその日はミスタードーナツだった。特別に恨みがあるわけではない&今回はそういった事を話したいわけでもないのだけど、ミスタードーナツが好きだと思われるのは心外なので書いた)
そんなネガティヴなイメージをもつミスタードーナツに、何故かその日は行列にならんでみたくなった。映画にせよラーメン屋にせよ、およそ”列にならぶ”という行為が嫌いなはずなのに。とくに理由はない。あえて理由を挙げるなら”今までこういうの、ならんだ事ないよなあ。避けてきたよなあ。…もしならんで買ったりしたら何かが変わるだろうか?”と思ってしまったのだ。こういった”魔がさす”といったことはたまにあって、要するに暇だった。
10分くらいならんでドーナツを買った。(途中、ものすごく後悔して挫けそうになったが)
その帰り道につらつら考えた。今日ミスタードーナツをならんで買って食べる。何十年ぶりだろうか?その数日後、相方が出張から帰ってくるはずだ。彼女は僕の変化に気がつくだろうか?
僕は尋ねる
「何か変わったことに気がつかないか?」
たぶんそれだけではきっと分からないはずだ。オッケー、じゃあヒントをだそう。
「ドーナツ的な何かの変化だ」
「ドーナツ的変化ってなに?真ん中がなくなること?例えば後頭部の中心が薄くなってきてるとか?」
…やめよう、この変化の話は。
じつはミスタードーナツには二十歳の頃、夜中に友人達とよく行っていた。僕等の住んでいたローカルな街には大阪に続く幹線道路があって、そこは夜中でも大型の長距離トラックやタクシーが切れ間なく走っていた。
その国道の交差点の一角にミスタードーナツがあって、その店は明け方までやっていたので、度々そこが僕等の溜まり場になっていた。
そこに至るにはだいたいこういったパターンに陥る。
バイトをする⇒少ない給料をもらう⇒
パチンコで増やして豪遊しょうと目論み仲間といく⇒スッテンテンになる⇒
誰かの財布に生き残った数千円で王将に行き餃子を食べる⇒
食後、ミスタードーナツでコーヒーを飲み、ドーナツを食べながらくだらない話をして朝までいる。
”若いときには時間はあるが金はない”とよく言う。このセリフには普通、続きがあって”でも歳をとれば金はあっても時間がなくなる”と本来は続くのだ。なのに何故か”歳をとったら時間も金もなくなった”…現実はいつも辛い。
ところで友人の中にミスタードーナツに行くと決まってオールドファッションを食べるヤツがいた。彼はいつもオールドファッションを食べながら「知ってるか?オールドファッションは一見すると地味に見えるけど、実は全メニューの中でいちばんカロリーが高い!」という話を何度も繰り返した。(カロリー云々が定かかどうかは今も知らない)
じゃあ、なんでその”高カロリーなオールドファッション”をいつも食べるんだ?と僕は聞いた。
「そんなこと決まっているだろ。オールドファッションには哲学がある。他のものにはない。フレンチクルーラーは軟弱者の食べ物だし、エンゼルクリームを頼むヤツは人生の負け犬だ」と彼は言った。そのとき僕はフレンチクルーラーを齧っていた。
ある夜、いつものようにパチンコに負けて僕等はミスタードーナツにいた。傘がいらない程度に小雨が降っていた夜だ。
友人のKがダバコがなくなったので”オールドファッション”に一本分けてくれ、と頼んだ。話が一通り尽きてみんな退屈し始めていた時間帯だったのだろう。いつもなら何も言わずにタバコの箱を彼にポンと渡すのに、そのときオールドファッションはこう提案した。
「ジャンケンをしてKが勝ったらダバコを吸いたいだけ吸ってもいい。もし俺が勝ったらそこの交差点の信号が青のうちに横断歩道を兎跳びで往復して戻ってくる、どうだ?」
交差点の道幅は右折レーンを含めて片道3車線あったので結構な距離があった。数分後、Kは小雨の中で横断歩道を兎跳びで”こちら側”に戻って来ようしているのがミスタードーナツの大きな窓から見えていた。あともう少しというところで脚が縺れ、信号は赤にかわり大型トラックにクラクションを鳴らされていた。Kのドーナツの好みはエンゼルクリームだった。
あの交差点のミスタードーナツはまだあるのだろうか?彼等は今頃どうしているのだろう?もうずいぶん遠い昔の話だ。そして今日も僕はフレンチクルーラーをいちばん最初に齧っている。
ドーナツ売り場の列にならんだくらいで人生のいったい何が変わるというのか?
”フレンチクルーラーは軟弱者だ”
確かにその通りかもしれない。
レジで支払いを済ませたあと、まっすぐ帰らずに同じショッピングモール内にあるミスタードーナツに向かった。安売りのキャンペーンをしているらしく、僕が買い物を済ませる前に通りがかったときから短い列ができていた。
ミスタードーナツは過去に何度も食品衛生管理の問題を起こしているし、酷い例では外部業者の告発を口止料を払ってもみ消し、そのまま件の商品を売り続けたのが発覚し裁判沙汰になったこともある。それなのに今もドーナツは売れ続け、キャンペーン中は行列までできるのだ。僕にはそれが不思議でならない。(そういった例はいくつもあるのだろうが、たまたまその日はミスタードーナツだった。特別に恨みがあるわけではない&今回はそういった事を話したいわけでもないのだけど、ミスタードーナツが好きだと思われるのは心外なので書いた)
そんなネガティヴなイメージをもつミスタードーナツに、何故かその日は行列にならんでみたくなった。映画にせよラーメン屋にせよ、およそ”列にならぶ”という行為が嫌いなはずなのに。とくに理由はない。あえて理由を挙げるなら”今までこういうの、ならんだ事ないよなあ。避けてきたよなあ。…もしならんで買ったりしたら何かが変わるだろうか?”と思ってしまったのだ。こういった”魔がさす”といったことはたまにあって、要するに暇だった。
10分くらいならんでドーナツを買った。(途中、ものすごく後悔して挫けそうになったが)
その帰り道につらつら考えた。今日ミスタードーナツをならんで買って食べる。何十年ぶりだろうか?その数日後、相方が出張から帰ってくるはずだ。彼女は僕の変化に気がつくだろうか?
僕は尋ねる
「何か変わったことに気がつかないか?」
たぶんそれだけではきっと分からないはずだ。オッケー、じゃあヒントをだそう。
「ドーナツ的な何かの変化だ」
「ドーナツ的変化ってなに?真ん中がなくなること?例えば後頭部の中心が薄くなってきてるとか?」
…やめよう、この変化の話は。
じつはミスタードーナツには二十歳の頃、夜中に友人達とよく行っていた。僕等の住んでいたローカルな街には大阪に続く幹線道路があって、そこは夜中でも大型の長距離トラックやタクシーが切れ間なく走っていた。
その国道の交差点の一角にミスタードーナツがあって、その店は明け方までやっていたので、度々そこが僕等の溜まり場になっていた。
そこに至るにはだいたいこういったパターンに陥る。
バイトをする⇒少ない給料をもらう⇒
パチンコで増やして豪遊しょうと目論み仲間といく⇒スッテンテンになる⇒
誰かの財布に生き残った数千円で王将に行き餃子を食べる⇒
食後、ミスタードーナツでコーヒーを飲み、ドーナツを食べながらくだらない話をして朝までいる。
”若いときには時間はあるが金はない”とよく言う。このセリフには普通、続きがあって”でも歳をとれば金はあっても時間がなくなる”と本来は続くのだ。なのに何故か”歳をとったら時間も金もなくなった”…現実はいつも辛い。
ところで友人の中にミスタードーナツに行くと決まってオールドファッションを食べるヤツがいた。彼はいつもオールドファッションを食べながら「知ってるか?オールドファッションは一見すると地味に見えるけど、実は全メニューの中でいちばんカロリーが高い!」という話を何度も繰り返した。(カロリー云々が定かかどうかは今も知らない)
じゃあ、なんでその”高カロリーなオールドファッション”をいつも食べるんだ?と僕は聞いた。
「そんなこと決まっているだろ。オールドファッションには哲学がある。他のものにはない。フレンチクルーラーは軟弱者の食べ物だし、エンゼルクリームを頼むヤツは人生の負け犬だ」と彼は言った。そのとき僕はフレンチクルーラーを齧っていた。
ある夜、いつものようにパチンコに負けて僕等はミスタードーナツにいた。傘がいらない程度に小雨が降っていた夜だ。
友人のKがダバコがなくなったので”オールドファッション”に一本分けてくれ、と頼んだ。話が一通り尽きてみんな退屈し始めていた時間帯だったのだろう。いつもなら何も言わずにタバコの箱を彼にポンと渡すのに、そのときオールドファッションはこう提案した。
「ジャンケンをしてKが勝ったらダバコを吸いたいだけ吸ってもいい。もし俺が勝ったらそこの交差点の信号が青のうちに横断歩道を兎跳びで往復して戻ってくる、どうだ?」
交差点の道幅は右折レーンを含めて片道3車線あったので結構な距離があった。数分後、Kは小雨の中で横断歩道を兎跳びで”こちら側”に戻って来ようしているのがミスタードーナツの大きな窓から見えていた。あともう少しというところで脚が縺れ、信号は赤にかわり大型トラックにクラクションを鳴らされていた。Kのドーナツの好みはエンゼルクリームだった。
あの交差点のミスタードーナツはまだあるのだろうか?彼等は今頃どうしているのだろう?もうずいぶん遠い昔の話だ。そして今日も僕はフレンチクルーラーをいちばん最初に齧っている。
ドーナツ売り場の列にならんだくらいで人生のいったい何が変わるというのか?
”フレンチクルーラーは軟弱者だ”
確かにその通りかもしれない。
2015年11月19日木曜日
鴨川右岸
”川辺を散歩する”…いい響きだ。
”よく晴れた秋の日に川辺を散歩する”…さらにいい響きだ。
言葉のどこかに”ちゃんとした生活を送っています”という意味が内包されている気がする。
今週の休日、ちゃんとした生活を送っていない代名詞みたいな職業のバーテンダーが、よく晴れた秋の日の午後に川辺を散歩した。いちばんの目的は知人が営むギャラリーの二人展を見にいくことだったのだけど、それ以外にたまにはそういった”ちゃんとした生活”的なことをしてみたかったのだと思う。
家から北大路通りを東に向かい、鴨川にかかる橋まできて川沿いを南に行く。次の出雲路橋までは数百メートル。そこからさらに東に向かって徒歩5分くらいのところに目指すギャラリーがある。
最初は鴨川の左岸を川の流れに合わせて南に歩いた。左岸、右岸ともにどちらでも土手沿いを歩くことができるのだけど、たまたま信号の都合で左岸を歩くことになった。
”鴨川の左岸を歩く”…かなりいい響きだ。まるでボルトーのジロンド川流域でカベルネ・ソーヴィニヨンの葡萄畑を眺めながら散歩しているようじゃないか⁉︎ フランス…もちろん行ったことなんてないけれども。
目的のギャラリーに辿り着き、コーヒーをご馳走になり、ひとしきり昔話をした後(もちろん作品はじっくり見た)、復路に向かう。やはり帰り道は逆の”右岸”を歩きたかったので、今度は信号機に選択権を与えることはしなかった。”自分で選択したことはすべて正しい”。これは今までも、そしてこれからもずっと普遍的な真理だ。
だいぶんと西に傾いた太陽の光ではあるけれど、右岸は左岸より日当たりがよく心地よい。草むらでは秋の虫が寂しげに鳴いていて、どこからか学校の終業のチャイムも聞こえてくる。その音は放課後の気怠い気分を思い起こさせ、そしてそれがいったい何年前の出来事だったのかを考えたのだけど、あまりに遠くて途中で辿るのを諦めた。そこはもう散歩では辿り着けない距離にあった。
なんだか無性にビールが飲みたくなったのだけど、平日の昼間、それも夏ではなく晩秋に鴨川の岸辺でビールを飲んでいる人は見かけなかった。たぶんジロンド川でもいないと思う。それに学校のチャイムが聞こえるようなところでビールなんか飲んでると”補導”されるかもしれない。どうせ補導されるなら飲酒よりは不純異性交遊がいい、断然に。
そういうわけでビールを諦めしばらく歩いたら、今度は豆腐売りの車から追い討ちをかけるように哀しいラッパの鳴る音が聞こえてきた。
♩ぱーふー、ぱふぱふー♪
夕刻にこれに勝るBGMが世界に存在するだろうか?
秋の日の鴨川右岸は人をセンチメンタルにさせる。もしかしたらメルローの香りがそうさせるのかもしれない。
”よく晴れた秋の日に川辺を散歩する”…さらにいい響きだ。
言葉のどこかに”ちゃんとした生活を送っています”という意味が内包されている気がする。
今週の休日、ちゃんとした生活を送っていない代名詞みたいな職業のバーテンダーが、よく晴れた秋の日の午後に川辺を散歩した。いちばんの目的は知人が営むギャラリーの二人展を見にいくことだったのだけど、それ以外にたまにはそういった”ちゃんとした生活”的なことをしてみたかったのだと思う。
家から北大路通りを東に向かい、鴨川にかかる橋まできて川沿いを南に行く。次の出雲路橋までは数百メートル。そこからさらに東に向かって徒歩5分くらいのところに目指すギャラリーがある。
最初は鴨川の左岸を川の流れに合わせて南に歩いた。左岸、右岸ともにどちらでも土手沿いを歩くことができるのだけど、たまたま信号の都合で左岸を歩くことになった。
”鴨川の左岸を歩く”…かなりいい響きだ。まるでボルトーのジロンド川流域でカベルネ・ソーヴィニヨンの葡萄畑を眺めながら散歩しているようじゃないか⁉︎ フランス…もちろん行ったことなんてないけれども。
目的のギャラリーに辿り着き、コーヒーをご馳走になり、ひとしきり昔話をした後(もちろん作品はじっくり見た)、復路に向かう。やはり帰り道は逆の”右岸”を歩きたかったので、今度は信号機に選択権を与えることはしなかった。”自分で選択したことはすべて正しい”。これは今までも、そしてこれからもずっと普遍的な真理だ。
だいぶんと西に傾いた太陽の光ではあるけれど、右岸は左岸より日当たりがよく心地よい。草むらでは秋の虫が寂しげに鳴いていて、どこからか学校の終業のチャイムも聞こえてくる。その音は放課後の気怠い気分を思い起こさせ、そしてそれがいったい何年前の出来事だったのかを考えたのだけど、あまりに遠くて途中で辿るのを諦めた。そこはもう散歩では辿り着けない距離にあった。
なんだか無性にビールが飲みたくなったのだけど、平日の昼間、それも夏ではなく晩秋に鴨川の岸辺でビールを飲んでいる人は見かけなかった。たぶんジロンド川でもいないと思う。それに学校のチャイムが聞こえるようなところでビールなんか飲んでると”補導”されるかもしれない。どうせ補導されるなら飲酒よりは不純異性交遊がいい、断然に。
そういうわけでビールを諦めしばらく歩いたら、今度は豆腐売りの車から追い討ちをかけるように哀しいラッパの鳴る音が聞こえてきた。
♩ぱーふー、ぱふぱふー♪
夕刻にこれに勝るBGMが世界に存在するだろうか?
秋の日の鴨川右岸は人をセンチメンタルにさせる。もしかしたらメルローの香りがそうさせるのかもしれない。
登録:
投稿 (Atom)