結婚式のスピーチ、定番中の定番。
『3つの袋』の話。
会社の上司とか、お偉いサン、よくある退屈な話だ。
おもしろくもないし、けっこう長い。
早く乾杯したいんだよ。
せっかくのシャンパンの泡が抜けてしまうじゃないか!
胃袋さん、給料袋さん、お袋さん…
さて、それとは別バージョンで、『3つの坂』の話というのもある…らしい。
らしい、というのは、僕が今まで招いてもらった結婚式で、『3つの袋』の話は聞いたことがあるけど、『3つの坂』の話を聞く場面にはまだお目にかかったことはないからだ。
曰く、「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、そして…魔さか』(このあと説明云々…)
魔さか
そう聞いても、「あー、そーゆーの、あるある、あるよなー」くらいにしか思わなくて、平常時では取り立て切羽詰まった実感はない。
これまでの人生で『魔さか』の瞬間はいくつもあったはすなのに、時間の流れがそれを何処にでもあるような公園の人目につかない銅像のように、硬く動かない何かに変えてしまう。視界に入ってはいても、過ぎ去った『魔さか』はもう見るこはできないのだ。
その『魔さか』を昨日、見た。
8月の終わりは、夏の終わりを意味する。日差しは昨日よりも弱く葡萄の葉を透かして、涼しくなった風がそれらを揺らしながら吹き抜けていく。8月30日はそんな夏の終わりにふさわしく穏やかな日であったし、時計の針が重なり、31日にかわった時も、店は同じように静かに1日の終わりに向かっていた。
25時半を過ぎた頃、カウンターには常連の女性客がひとりいた。彼女は他の店でビールを約10杯分飲んできていて、かなりクタクタだった。だけど自分では「今日、わたしはそんなに酔ってません!」といっていたので、もしかしたらクタクタなのは、たんに夏の終わりのせいだっただけかもしれない。ただ何れにせよ、その日は平日にしては忙しく、一日中座る間もなかったので、僕もかなりクタクタだった。
だから彼女がピスタチオを齧りながら、その日の通算7回目のアクビをし終わったとき、「もうそろそろ帰ろうか? (閉店時間も過ぎてるし)タクシーを呼ぶよ」と確認して、タクシー会社に電話をして、彼女のチェックを済ませてもらった。(『甘やかすだけが優しさではない』が、この店のモットー第23条だ。もちろん相手にもよる)
やがてタクシーがきて、階段を降りて店の外までいき、彼女を見送る。夏の間、夜中でも鳴き続けていた蝉の声はもうそこにはなかった。
本日最後のお客さんを乗せたタクシーが、御池通りを曲がったのを見届けてから、僕はポケットからキーを取り出し、看板代わりに店の入り口にぶら下げている月の人形の鎖を外した。
そのとき風が吹き、ふっと異臭がした。
最初、タクシーの排気ガスがまだ漂っているのかもしれないと考えてたのだけど、その臭いは排気ガスのそれとは明らかに違っていた。プラスチックなどの化学物質が燃える臭いだった。少なくとも僕はそう思えたのだった。
そこで僕は考えた。外した鎖を手に持ちながら。
『プラスチックの燃えるイヤな臭いは、燃えているときより、火が消えてから、その後の煙の方がよく臭う』
だから最初、「この辺りで、誰かプラスチックを燃やしたんだ。それで”今は消えているから”、こんなに臭うんだ」と…
でも待てよ、こんな夜中に、いったい誰が路上でプラスチックなんかを燃やすのだ?
…ありえない。
でもその化学物質が燃えるような臭いは、微かだけど、まだ辺りに漂いつづけている。
僕はクタクタに疲れているんだ。早く店の掃除を済まして家に帰って寝転がりたい…”魔さか”近所の家が火事なんてことはないだろう。
”魔さか”この近くで、誰かが冷徹な含み笑いをしながら、裏路地の人目につかない物陰で放火をしている最中だなんてことはないはずだ…と考えた。
『魔さか』
…ない、ない。
それで僕は手に電飾人形を持ちながら、階段を上がりかけた。
…いったい何が僕を引き止めたか。
たぶんそれが”ニオイ”の疑問だったからだ。ニオイの判断を誤るのは、自分の職業的生命線に関わる大問題だ。
そのニオイは絶対にそこにあってはならないニオイだった。たとえ夏の終わりの風に乗って遠くから運ばれてきた僅かな異臭だったとしても。
どうしても気になったので、僕は月の電飾人形を手に持ったまま、店の周りの路地を一周して火や煙がどこかの家屋から出ていないか、注意深く見てまわった。
まだニオイはする。
でも周りの家からは、どこからも火の気配はなく、住民はみんな夏の終わりの最後の夜を満喫して静かに眠っているようだった。
路地をひと回りして、店の階段までもどってきた。1階の居酒屋はもうとっくに閉店していて誰もいない。入り口はガラスの格子ドアで、外からドア越しに店内を見ることができるのだけど、今夜はもう電気は消してあり、中は真っ暗だ…
真っ暗…のはずだった。
『魔さか!』
奥の厨房にあるはずのない、ある種の”明かり”が点いていた。その明かりは人工的な電気の明かりではなく、命を持っているように揺ら揺らと蠢く明かりだった。やわらかな夏の終わりにはふさわしくない、強く悪意を含んだ炎のユラメキ。
『魔さか』
下の店が火事だったなんて。
魔さかのとき、だいたいにおいて人はパニックに陥る。僕の場合、8割方パニくっていて、残り2割程は変に冷静だった。
まずパニクって何を考えたか?
☆消防車を呼ぶために電話する。(その間に燃え広がったらどうする? それが最善か?)
☆自分の店の消火器を持ってきて、ドアか窓ガラスを壊して、自分で消火する。(個人プレーで消しきれなかったらどうする? 責任負えるのか?)
☆消防車を呼ぶにせよ、ドアを壊して自分で消火するにせよ、”そもそも本当に火事なのか?” 何かしらのオブジェが光っているだけだったらどうするんだ?)
☆この家屋、古い木造だから、たぶんあっという間に燃え落ちるだろうな。
☆店、再開できるだろうか?
☆今のうちに少しでも貴重品を運び出すか? いやいや、通報が先だろ? でも貴重品ってなんだ? そんな高価な酒も置いてないし、でも備品はみんな平等に大事だよなあ…
☆あっ!、蓄音機をどうしよう。青木さん(手染メ屋の)に謝らなきゃなぁ… 1人では運べないけど、多少傷がついてもいいから、階段から滑り落とすことができないか?
☆まてまて、蓄音機本体はお金さえあればもう一度手に入るが、SP盤の方が2度と手に入らないから貴重なんじゃないのか?
☆いや、でもSP盤も大事だけど、自分のLP盤も運び出したい。
☆それはきっと1人では困難な作業だ。
☆青木さんに電話して事情を話したら手伝いに出てきてくれるか?
「あ、もしもし青木さん。夜分にお休みのところを本当に申し訳ないのだけど、…実は月読の下の店が火事でね。いや、どうやら僕が第1発見者みたいなんだけど、とりあえず蓄音機とSP盤だけ先に運びだしたいので来てくれるかな? 悪いんだけど」
☆違う、違う、消防車と消火器の二者選択だろ?
☆消火器で本物の火事を消すなんて初めてだ。上手くできるのか? 大仁田厚が消火器を使うときも「ファイヤー」っていうんだろうか?
☆これはきっと火事じゃない。勘違いだ。だから気がつかなかったフリして、さっさと家に帰ろう。
☆いや、そのまえに裏の隣接する家に知らせなきゃ、大惨事だ。
☆火災保険、いくら出るんだろ?
↑ 以上のことが、たぶん3秒くらいのあいだに僕の頭の中を駆け巡って、絡まって、絡まって、そして何処かに消えていった。
その後、冷静な2割くらいの部分で考えた。
☆なんらかの火災的事象が起こっているのは間違いない。
☆でも煙はそれほど上がってないし、火の手は広がってはいない。ずっと同じ規模で燃えているみたいだ。
☆それはどういう状況?
☆おそらく金属のような大きな不燃物の台座(シンクとか)の上で、それより小さいな可燃物が燃えている。
☆下の店の店長の名刺をもらっていたな。
☆彼はよく店を早仕舞いしたときには、まっすぐに家に帰らずに、何処かで飲んでいる。
☆近くにいたらドアを開けて、消火器で消せばいい。
☆遠くにいたら、状況を話して、それから聞いて、場合によってはドアを壊して入る確認をとる。
☆(もう一度見て)やはり火の手は広がっていない。(燃え続けてはいるけど)
☆最初に異臭に気がついてから、これまで相当に時間が過ぎている。(こんなものでは済まないはずだ)つまり状況判断は”当たっている”
↑ 以上の理由で、僕は店に戻り、下の店の店長の名刺を取り出し、電話をかけた。(携帯のナンバーが記されているのは何故か覚えていた)
案の定、彼は酒場にいたみたいだった。受話器の向こうからは、それらしきザワザワした人々の酔った声が聞こえてきた。
「もしもし、おたくの店の厨房が火事みたいなんだけど…」
こんな間の抜けた会話を自分がするとは思ってもみなかった。
彼は「わかりました、すぐ行きます!」といって電話を切ったのだけど、いったい彼はどこの酒場にいて、”すぐ”ってどのくらいなんだ?
彼を待つ間、僕は用意した消火器を階段の隅に置いて、ドア越しに揺ら揺ら燃え続けている明かりを見ていた。(思った通り、火の手は変化していない)
やがて下の店の店長が走ってやってきた。(1分くらいして)
どこで飲んでいたのか知らないが、予想以上に早かった。彼は居酒屋の店長なんかやめて、東京オリンピックを目指すべきかもしれない。秘められた才能は誰にでもある。
しかし彼もそうとうパニクっていたのだろう、店の前まできたとき、彼が最初にした行動は、僕に向かって「お疲れさまです!」と挨拶をしたことだった。
礼儀正しいのは彼の長所の1つだ。だけど早くしないと、僕も君も明日から”疲れる場所”がなくなる。
僕は彼に「お疲れさま」とはいわずに、ドア越しの厨房を指差して、「あれ、火が出てないか?」といい、彼は慌てて裏口の鍵を開け、店内に駆け込んだ。
事の顛末としては、彼がフライパンを洗って、乾かすためにコンロに火をかけ、空焚きをして火を消し忘れた。その結果、フライパンの取っ手の部分が熱に耐えきれなくなって火がついたようだ。
魔さか、の初歩的なミス。
でももし、お客さんの帰るタイミングが違ったら、タクシーの来るタイミングが違ったら、風が逆に吹いていたら、僕が風邪をひいていて、鼻が利かなかったら…
人の運は一定量だとよくいうけれど、もしそれが本当なら、きっと僕の運はこの先10年分ほど使い切ったに違いない。(その意味においては、今週末の競馬がとても心配だ)
…
さて、
結果オーライだったにせよ、自分の判断は危険だったのではないか?(早く消防署に連絡をすべきだったのでは?)
電話をするとき、指が震えた。消火器の扱いが迅速にできなかった。(日々の訓練の重要性)
近所付き合いは大切だ。(自分だけではカバーしきれない事が多々あるし、カバーしあう事で惨事を最小限にすることができる)
…等、今回の一連の出来事で学ぶべきことはたくさんある。
たくさんあるのだけど、もっとも重要な教訓は、『結婚式で上司のスピーチはためになるから黙って聴け』ということに他ならない。
3つの袋についても再考すべきだ。
人生では、シャンパンの泡が抜けることくらい大したことじゃない。我々若輩者はもっともっと我慢するべきなのだ。
写真のカクテルは『ポンピエ』
カシスとベルモットをソーダで割った、かなり優しいカクテル。
意味はフランス語で、消防士。
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