SINCE 2004
京都の繁華街から外れた場所。
ジャズレコード、蓄音機、シーメンスのスピーカー、ビリヤード台、昭和歌謡、古書…シングルモルトをはじめとする蒸留酒とスタンダード・カクテル。
外の世界とは少しだけ時間の流れが違う場所。
詳しくはオフィシャルサイトをご覧下さい
2017年11月9日木曜日
今、そこにあるフジツボ
人間の記憶というものは、ときに曖昧で、しかも本人が思っている以上に早く忘れてしまうみたいだ。
さらに厄介なことに、忘れたはずの記憶がなにかの拍子にとつぜんと思い出したりすることだってある。
曖昧な記憶をとつぜんに思い出したりしても、はたしてその記憶は信用に足るものなのか?
この世はいつだって藪の中。なにが正しいのかなんてわかりはしない。
ただし記憶のなかでも、かなり信用に足るものだって存在する。それはフィジカルな体験として覚えた記憶。いわゆる『身体が覚えている』というやつだ。
たとえば大人になってから、子供のころに遊んだ竹馬にかんたんに乗れてしまったり…あ、そういった意味では自転車の方がわかりやすいだろうか。1度でも自転車に乗れるようになったら、どれだけ間があいても乗り方を忘れたりはしないものだ。
そんな『身体が覚えている記憶』のなかで、たぶん珍しいカテゴリーにはいるものを僕はもっている。
フジツボの記憶。
僕の父の実家(つまり祖父母の家)は、京都の北部、日本海に面した丹後地方の久美浜というところにあった。(過去形なのは、もう2人とも鬼籍に入ってしまったからだ)
僕が子供のころは、夏休みになると久美浜に数週間のあいだ泊まりにいって、思う存分に海水浴を楽しんだ。久美浜の海水浴場はどこも白砂の遠浅で、子供が遊ぶには適していたのだけれど、水と砂しかないところでは子供だってやがて飽きてしまう。そんなときは、海水浴場の端っこの方にある岩場に探検に出向くのだ。
ところで、泳いでいるあいだは、とうぜんのことながら素足だ。岩場(海の)で遊んだ経験のある人にはよくわかると思うのだが、岩場を素足で歩くのはとてもキケンなのだ。(そもそも歩くと普通に痛いし)
なにがキケンか?
フジツボである。
(フジツボの説明、いらないよね?)
フジツボの上を歩くと、富士山の火口のような鋭利な部分で足の裏を切ったりする。(ちなみにフジツボの語源は中国の”藤壺”であり、形が日本の富士山に似ているからではないらしい)
それでも子供はいちいち気にして遊んではいられないから、何度かはフジツボで痛い目にあう。そこで体得するのだ。フジツボを踏まない方法を…ではなく、不意にフジツボの密集地帯に足を置いてしまったとき、どうするかを、だ。
岩場の影に足をおろしたとき、過去の痛い経験から、頭の中で「あ、しまった⁉︎ フジツボ(の密集地帯)を踏んだぞ‼︎」と電光石火のごとく理解するようになる。
この瞬間、なるべく足の裏にかかる自分の体重をフジツボ密集地帯に対してフラットに保つように心がけ、けっして慌てて動かないようにするのがコツだ。慌てて移動しようとして、体重が斜めにかかるとフジツボの火口で身を切ることになる。
しばらく静止して呼吸を整えたのち、なるべく斜めに体重がかからないよう、細心の注意を払って、ゆっくり、ゆっくりと足を垂直にあげて移動していくわけだ。
垂直軸でバランスをとって静止。これを頭で考えずにできるかどうかが大きな鍵となる。
しかし残念なことに、大人になると海水浴にはいかなくなる。そうするとせっかく体得した『フジツボ密集地帯・離脱方法』も宝の持ち腐れ、記憶の彼方に消えてしまう。いつしか僕の記憶からも、それは深い眠りについてしまっていた。
ある日のこと。
僕は家の掃除をしていた。ひと月に約1週間くらいは、嫁さんが仕事の都合上で九州に行っている。つまり独身生活なのだ。
部屋に掃除機をかけるとき、ふつうは椅子やゴミ箱なんかを別の場所に移動させてからするものだと思う。とうぜん、僕もそうする。
そういった手順を踏みながら、掃除をする最後の場所、風呂場の脱衣場にきた。ここには洗濯機と洗面台なんかもあって、6畳よりもやや狭いスペースだ。
この場所で事件は起きた。
洗面台の左横には、いつもならゴミ箱が置いてある。ただそのときは、掃除機をかけるため、あらかじめゴミ箱を縁側に移しておいたので、そこには何もなかった。いや、”ないはず”だった。
僕は脱衣場の床に掃除機をかけるまえに、まず洗面台の鏡を拭き掃除した。
ひと通りの作業が終わったあと、別の部屋に置いてある掃除機を取りにいこうと、足を踏み出した。
左足、第一歩目。
そこは普段ならゴミ箱が置いてあるはずのスペースだ。
そこに左足が着地した瞬間、僕の身体はキケンを察知した。足の裏にあの遠き日の”火口”を確かに感じたのだ。記憶はいっきに40年を遡り、その眠りを覚ました。
「あ、フジツボ ‼︎」
僕は0.1秒くらいで、身体を垂直軸にバランスをとり、静止を保った。
そして、僕は静止しながら考える。
なぜ、京都盆地のど真ん中でにフジツボがいる…?
いや、世の中は不思議なことでいっぱいだ。もしかしたら、淡水や陸上に生息する新種のフジツボだっているのかもしれない。
でも、それがどうして自分の家の脱衣場の洗面台の横にある、ゴミ箱の置いてあったスペースでなければならないのか?
考えたところで理解不能だ。それで僕は、フジツボ密集地帯・離脱方法の第2ステップにとりかかる。垂直軸バランスを保ったまま、左足をゆっくり、ゆっくりと上に上げる。
僕の左足の裏から、なぜか張り付いていたフジツボが剥がれて、パラパラと床に落ちていった。
青く透き通った色のフジツボ。
フジツボの正体は、夥しい数の使い捨てコンタクトレンズの山だった。
おそらく嫁さんが顔を洗いながら、コンタクトレンズを外し、よく確認しないまま適当に、ゴミ箱が”あると思われる場所”にポイポイと捨てていった結果、京都市北区の一画にフジツボ密集地帯が発生したものと思われる。
井上陽水が『とまどうペリカン』で、
♩あなたひとりで走るなら
私が遠くはぐれたら
立ち止まらずに 振り向いて
危険は前にもあるから♩
と歌っていたけど、まったくその通りだ。
キケンは海水浴場の岩場だけにあるのではない。一人でいる自宅の洗面台の横にもあるものなのだ。
その後、フジツボの件を嫁さんには言ってはいない。この世の事象(主に嫁さんに関する)には、決して『変えられないもの』があるのだということを、僕はもうすでに”体得”し”記憶”ているのだ。
もし今度、うちに遊びにくることがあるなら、そのときはビーチサンダルを持参してもらえればありがたい。
それとも『フジツボ密集地帯・離脱方法』を習得してみる?
僕はきっとその道では優秀なインストラクターになれると思う。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿