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2017年6月15日木曜日

最短距離をゆく

「北極へ行くには、どっちの方向ですか?」

こういったのは、大学時代につき合っていた彼女だった。かれこれもう30年くらい前の話だ。

それは映画の上映開始時間を待っている間、喫茶店で時間つぶしをかねて、遅めの昼食をとっているときだった。

僕はこれから観るであろう映画についてぼーっと考えていた。だから彼女が話しかけている内容についてはずっと右から左に聞き流していたので、間の抜けた返答をして少しばかり彼女をムッとさせてしまった。

えっ、 北極? 南極ならまだしも、北極にいくのは難しいと思うけど…

「違うの、だから罰ゲームなのよ!」

つまりこういうことだ。

それは彼女と同じ大学に通う女友達5人で、何かしらの簡単なゲームをする。ジャンケンでもいいし、あみだくじみたいなものでもいい。そして負けた人が、あらかじめ決められていた任意の場所(なるべく現実離れした場所)にいく方法を、通行人を適当に捕まえて、その人に食い下がって尋ねるという、あまり意味のない暇つぶしのゲームをしたというレポートだった。

”暇つぶし”なんて、考えてみればずいぶんともったいない話ではある。

でも当時、僕らは大学生だったし、ほとんどの大学生がそうであるように、時間は無尽蔵にあると思っていた。それは水道の蛇口を捻れば水が出てくるのと同じように。そして時々、朝目覚めると(僕の場合、往々にして昼過ぎだったが)、その溢れ出た水の中で溺れそうになっていた。でも今では砂漠の中で一滴の水を探し歩いているような毎日だ。ツケは必ずまわってくる。対価は支払わなくてはならない。

吉田拓郎がマークIIの中で

『年老いた男が川面を見つめて、時の流れを知る日が来るだろうか』

と歌っているが、今その心境が少しは分かるような気がする。

ただ彼女はそんな時間の洪水の中で、ただ流されて漂うだけのボウフラ学生とは違って、何にでも最短距離を通って目標を達成できるよう、キチンと計画を立てて、それをコツコツ実行するような才女(いわゆる”生徒会長”のような)タイプだった。

彼女はまた決断の早さと行動力も優れていて、たとえば思い立ったらシベリア鉄道に乗り込んで、大陸縦断の一人旅をするようなことも平然としていた。

これも今になってよく分かるのだけど、”世界の広さ”というのは、実際にそこにいって体感したものだけが獲得するものであって、たとえばどれほどグーグルアースで各地の隅々をながめたとしても、それは知識だけでその世界の”広さ”を獲得したわけではないのだ。

そういった意味において、彼女はすでに一般的な学生よりも、広大な”世界”を獲得していたし、それに対して僕といえば、地方都市の狭い井戸の底で日々、右往左往する”小さな世界”の蛙(カワズ)でしかなかった。

そんな彼女がその場のノリとはいえ、友達とバカバカしいゲームをすることもあるんだと妙に感心したのと、それと同時にいつも”最短距離”を選択し、広い世界を獲得し続ける彼女が、さしたる目標もなく、ダラダラと時間を浪費している、遠回りタイプ(”足踏み”というべきか?)で、小さな世界に満足して過ごしている僕と一緒にいることについても、それはとても不思議なことだった。

彼女の話によると、ゲームの最初のお題は『万里の長城』だった。何回か彼女以外の友達が負けた。その度に通りの通行人を捕まえて、…それは得意先まわりの会社員だったり、散歩中のお年寄りだったりした… その場所の方角と、そこにたどり着くまでの交通手段を赤面しながら尋ねたらしい。(彼女がいうには実際にやってみるとかなり恥ずかしいということだった)

彼女たちの暇つぶしに捕獲された気の毒な通行人のほとんどは、困惑したり、ときには苦笑いしながらも、その無意味なイタズラに”真面目”につき合ってくれたようだった。

そしてお題の場所にたどり着く方法(交通手段とか)の返答の仕方ははそれぞれ違ったけれど、方向を尋ねたときだけは、皆共通して地平線に近い低い空を眺めて、その場所の在るべき方角を腕を上げて指差した。

ゲームというものはクリアーされ、進行していくごとに難易度は高く設定されていく。
最初のお題の『万里の長城』が『ガンダーラ』になり、さらに『スフィンクスのいる砂漠』になった。(僕としてはガンダーラの方が超難問に思えるのだが)

そしてとうとう彼女が負ける番が回ってきた。そのときのお題がまさに『北極』だった。
映画の上映開始時間がせまってきたので、僕は注文していたサンドイッチと緑色のクリームソーダを少し急いで食べる必要があった。僕は幼少期からの習慣みたいなもので、喫茶店でサンドイッチとクリームソーダ(緑のものに限る)を注文するのが好きだった。もちろん今ではもうしない。

そして”サンドイッチとクリームソーダの組み合わせ”と同じくらい、映画が始まる前のCM、つまり”上映予定映画のダイジェスト”を観るのが好きなのだけど(こちらは今でも好きだ)、その時間と引き換えにしても彼女の話の続きを聞きたかった。後回しではなく、今すぐに。そこには何かしら予感めいたものがあったのかもしれない。

彼女が選んだ通行人は30代の”たぶん”若い植木職人だったらしい。”たぶん”というのは、彼女が考える植木職人というのは、だいたい50歳以上をイメージしていたし、見かけがどんな服装をしていて、どんな道具を持ち歩いているのかよく知らなかったからだ。

その若き通行人は作業用の黒っぽいグレーのジャンパーを着てジーンズを履き、肩に大きな鞄をぶらさげていた。腰に巻きつけられたベルトには何種類かのハサミがかけられていて、手には竹ぼうきを持っていたので、”植木職人”とそう判断したのだった。

「あのう…ちょっとすいません…」

彼女は気の毒な若い植木職人に声をかける。

若い植木職人は自分に声をかけられたのかを、いまひとつ確信がもてないまま、返事をせずに彼女の方を振り向く。

「ええっと、北極に行くには、どっちの方向ですか?」

(きっと彼女は顔を赤らめながら尋ねたのだろう)

そして若い植木職人は、間違いなく自分に声がかけられたのを認識できて少し安心するも、すぐまた戸惑うことになる。

「えっ? 北極…ですか? シロクマのいる、あの北極?」

「はい…その北極です…スイマセン…」

若い植木職人は彼女の態度をみて、すぐさまそれが何かのイタズラやゲームの類だと理解したようだった。

ただ彼はそれまでの通行人とは違う方角の示し方をした。つまり腕を上げ、その方向を指差したりはしなかった。

「…それだったら、北極星のある方角ですね。春夏は北斗七星を、秋冬はカシオペア座を眺めるといいですよ」

でも、それでは夜しか”歩けません”よね?

「だったら昼間は切り株の年輪をみてはどうかな。北極の方角は間が詰まってるから。ところで北極には歩いて行くの? ずいぶんと時間がかかるね」

若い植木職人は笑いながら彼女に尋ね返す。

次の質問を先取りされた彼女は少し慌てながら、答える。

「そうなんです。それ以外の方法が思いつかなくて。北極まで行くのに、どうすればショートカットして”最短”で行けますか?」

若い植木職人はほんの少しだけ考えて、彼女に自分が手に持っていた竹ぼうきを差し出した。
「よかったら、これ使ってみるかい?」

ゲームはその回で終了した。

「どう? 素敵でしょう!」

ここまで話してから、彼女はうっとりとした目をして(少なくとも僕にはそう見えた)、喫茶店の窓越しに通行人を眺めた。若い植木職人はそこには居ない。おそらく彼女が偶然また彼に出会う確率もまずあり得ないだろう。それでも僕は彼に猛烈なヤキモチを焼かずにいられなかったし、同時に不吉な未来を確信したのだった。いつか必ず、それも近い将来、広い世界観を持った、最短距離を行く”大人な誰か”に彼女を奪われてしまうのだろうと。そして嫌な予感というのは、いつもだいたい当たるのだ。

そしてその後、僕たちは映画館に向かった。

主人公の少女がホウキに乗って空を飛ぶ映画…『魔女の宅急便』を観るために。
やがて彼女は大学を卒業して(僕は半年間の留年をして、ちょうどその頃フラれた)、優良企業に就職して、最短距離で出世をして、最短距離で外国人と恋に落ちて結婚し、彼の住む北欧へと嫁いで行った。

北欧に行くには、北極回りの航路で飛行機に乗ったのだろう。最短距離をとるのがきっと今でも彼女の流儀なのだ。



ちょうどカクテルに『ポーラ・ショート・カット』というネーミングのものがある。ラムベースの赤くて、強くて、少しだけ甘いカクテル。

1957年にコペンハーゲンと東京間の北極回り航路開設を記念したカクテル・コンペで優勝したものだ。(念のために説明すると、たとえば日本からヨーロッパに行くとき、北極回りをする方が航路が短く、つまりショートカットできる)




そしてつい最近のことなのだが…

休日、僕は家を出て、北の大通りに昼食をとるために蕎麦屋に出かけた。ミシュランで星をとったので、なかなか入るのが困難になった店なのだけど、その日は僕にしては珍しく並ぶのを覚悟してそこに向かった。

その途中、あともう少しで件の蕎麦屋に着くというところで、不意に背中から声をかけられた。若い女性の声だった。

「あのう…小世界はどこですか?」

あれから30年あまり過ぎている。

まだそのゲームをしているやつがいるのかと、信じられなかったが、振り返るとそこには現実に若い女性が確かにいた。

それにしても”小世界”ってなんだ?

『万里の長城』から何回ゲームを続ければ『小世界』なんて難易度の高いところにたどり着くのだろう。

「これに乗って自分で探してこい!」

と、竹ぼうきを叩きつけてやりたかったが、僕は竹ぼうきを持ちながらミシュランで星をとるような小洒落た蕎麦屋に行ったりはしない。いくら井戸の中の蛙でも、そのくらいの常識はわきまえているのだ。

よく見るとその女性は大きなスーツケースを手に持っていた。もう片方の手には紙切れ。それは地図であり、その女性はアジア系の外国人旅行者だった。

地図には”正確”に読むと『小世界旅社』と書いてあった。そういえば僕の住んでいる家の南の大通りの方に、そんな名前の民泊のような場所があったのを思いだした。ただそこは入り組んだ細い路地にあり、僕の語学力では外国人にそこを説明するのは不可能に思えた。(もしかしたら日本人にさえ難しかったかもしれない)

仕方がないので、目前の蕎麦屋に背を向けて、

「れっつごー、つぎゃざー」

ということになった。



その旅行者は台湾から来たようだったが、そのくらいしか聞くことができず(あとは何日くらい日本に滞在するのかを聞いた気がする)、それ以外は黙って目的の”小世界”まで歩いた。

その沈黙の間、僕はあれからいったいどのくらい自分の世界が広がったのたろうか? と、これまでに流れ去った川の水のことを思った。それとあのウイットに富んだ若き植木職人は今頃どうしているのだろうか? というようなことを。

歩くこと15分くらいで目的の『小世界旅社』に着いた。台湾からの旅人はお礼をいったあと、出迎えた彼女の旅行仲間たちと小さな世界の入り口にある暖簾を潜って中に消えていった。僕は境界線のような路地に1人残され、家を出たときよりも更に遠くなった小洒落た蕎麦屋のことを思い、そして途方にくれた。

結局、蕎麦はあきらめ、小世界の裏側にある、大通りのタコ焼き屋にいってタコ焼きとイカ焼きが入った”Aセット”を注文した。ここはたぶんミシュランとは永遠に無縁だろうけど、蕎麦屋と違って待たなくてもすぐ買えるのがいいところだ。川の水は残り少ない。

静かな昼下がり。Aセットの包みをぶら下げながら家に帰る途中で考えた。結局のところ、今日、僕は遠回りをしたのだろうか? それともショートカットしたのだろうか?



2017年5月26日金曜日

スピリッツってなんでしょう?

「スピリッツって、なんですか?」

barをやっていると、たびたび受ける質問です。

「美味しんぼ…とかが連載されてる漫画雑誌です」(まだやってるのか?)…とは答えてはいません。

もちろん、お酒、アルコールのお話です。

お酒には大きく分けて、2種類あります。

醸造酒と蒸留酒です。

醸造酒というのは、原材料をバクテリアの力を借りて、発酵させて造る種類のお酒のことです。たとえば、お米を使って日本酒、葡萄を使ってワインといった具合に。これらのお酒は人工的な手法を使って、アルコール度数を上げることはされません。(アルコール添加された日本酒などは除く)

さて、思い出してみて下さい。

アルコール度数が40%の日本酒のラベルをみたことがありますか? アルコール度数が50%のワインを飲んだことがあるでしょうか?

絶対にないはずです。

なぜなら、そんなものはこの世に存在しないからです。

超簡単に説明します。

日本酒もワインも原料の米や葡萄を液化して、それをバクテリアがアルコールとガスに分解して造られます。そして発酵がどんどん進むとアルコール度数も上がっていきます。
さて、ここで問題です。

仮にアルコール40度のワインを造ろうとしたとします。発酵をどんどん進行させていきます。

でも、アルコール度数40度のワインは絶対にできません。なぜなら、発酵の途中で”バクテリアが自分で造ったアルコールに自分自身が滅菌消毒されて、20%(正確な数字は忘れた)くらいの地点で全滅するから”です。

つまり自然の力だけで造れるアルコール度数の限界はかなり低いところにあって、焼酎やウイスキー、ジン、ウオッカなどの40度を超える高アルコール度数のお酒は、人工的にしか造れません。

人工的にアルコール度数をあげる方法を、『蒸留』といい、”蒸留機”を使って、できた高アルコール度数のお酒の総称を『蒸留酒』といいます。簡単にいうと、醸造酒を蒸留機を使って、人工的に水とアルコールに分離させて、度数を高めていく方法です。

”蒸留”は中世の錬金術の実験過程で、偶然に発見されたともいわれていますが、不老不死の霊薬を作っていて、偶然にできた蒸留酒。それを飲んだ中世の錬金術師たちは、もちろん、それまでに醸造酒しか飲んだことがないから、高アルコールによって急速に酔いが回り、心臓がバクバク波打ち、それこそ本当にスピリッツ=魂、命の元と考えたのかも知れません。

さて、この人工的にアルコール度数を高めた蒸留酒のことを、一般的にスピリッツといいます。

とくに樽で熟成していない、透明の蒸留酒(ジン、ホワイトラム、ウオッカ、テキーラ・ブランコ)のことを、ホワイトスピリッツといい、概ね、《スピリッツ=ホワイトスピリッツ》のことを指していう場合が多いです。



先日、『共謀罪』が衆院を通過しました。

その前後のニュースで幾つかの醜聞も明るみに出ました。でも大手メディアは豆粒ほどの報道でお茶を濁し、知らん顔。世間は相変わらず静かで、支持率は高いまま。声を出すのはいつもと同じ人々。

そんな折、お客様から久しぶりに「スピリッツって何ですか?」と聞かれ、上記の説明をしていたのですが、途中からボンヤリと別のことも同時に考えていました。

『安倍一味が”自らの作った共謀罪で、自分自身がいちばん最初に滅菌されるべき”ではないのか? バクテリアは低アルコールでも消滅するけど、安倍一味は反支持率40%くらいでは滅菌されないし、なんとか”蒸留”できないものか…』などなど。

もちろん、接客中にこんなことは声には出してはいませんが。ただ少し”スピリッツ”の話には続きがあります。

「スピリッツといえば、イーグルスのホテルカリフォルニアという曲が有名ですが、ご存知ですか?」

そこに”スピリッツ”という歌詞が、ダブルミーニングで使われています。(ただ書いた本人は否定しているらしいですが…上記にもあるように、ワインはスピリッツじゃないし)

So I called up the Captain,
“Please bring me my wine”
He said,
”We haven’t had that spirit here Since nineteen sixty-nine”

いわく、

「ワインを持ってきてくれないか」

「あいにく、そのような”スピリッツ”は1969年以降、当ホテルにはご用意がございません」

* ホテルのバーにスピリッツがないことと、69年以降、ロック界が商業主義に陥り、魂を失ったことを二重に含ませています。

まあ、当人が言ってるのだから、”違う”のでしょうが(くどいようですが、ワインはスピリッツじゃないし)、あまりにも有名なこの解釈、このままの方が好きですけどね、カッコイイし。

さて「スピリッツって何ですか?」

2012年以降、日本の多くのマスメディアが失くしたものが、それです。

But…
Welcome to the bar tsukuyomi.
幾つものスピリッツを取り揃えて、お待ちしております。


2017年5月19日金曜日

慶事

誠に恐れ入りますが、

2017 5月 20日 (土曜日)

は、慶事のため、Bar月読は臨時休業とさせて頂きます。


ご迷惑をおかけ致しますが、ご了承ください。







2017年4月13日木曜日

夜の帳

『夜の帳』というコトバが昔から好きで、なぜ好きかというと、そこに意味などなく、ただ単に”好き”なのだ。

よく『月読』という屋号はどうして名付けたのですか? という質問をお客様や雑誌の取材時にいただく。

便せん上、「夜のカミサマである月読命にあやかって(バーだから)、ご利益がありますことを願って」と答えるのだけれど、本当は名付けた意味なんてなく、ただコトバの響きが好きだっただけなのだ。



それと同じように『夜の帳』というコトバの響きに強く惹かれてしまう。

毎年、春になると店の窓一面に桜の花を見ることができる。もちろん桜の花は好きなのだけど、桜の花が咲くとき、この窓から見える景色の中でいちばんに好きなのは、じつは花ではない。

日没時、薄紅色の花がそこにあることによって、夜の帳が降りてくる様がはっきりと見てとることができて、それがこよなく好きなのだ。

やわらかい春の光に包まれた景色に、夜の帳が降りてくる。誰もが言うように、やはり夜の帳の色は青なのだ。

逢魔が時。一瞬、どこかに連れていかれそうになる、妖しい青。




2017年2月24日金曜日

アンチョコ

昨日、bar月読が始まって以来(約12年以上の間)、初めてご注文いただいたカクテル。

『サッポロ』

レシピ確認のため、こそっとアンチョコ見ました。w

ちなみに”アンチョコ”って、語源は”安直”らしいです。

そして閉店後、片付けものしながら、鼻歌で石原裕次郎の『恋の町札幌』を歌った安直なワタクシ…

♪時計台の 下で逢って
わたしの恋は はじまりました
だまってあなたに ついてくだけで
私はとても 幸せだった
夢のような 恋のはじめ
忘れはしない 恋の町札幌♪


札幌は寒いだろうけど、京都もまだまだ寒いです。


2017年2月22日水曜日

いざ! 鎌倉

結婚する何ヶ月前だったか、もう忘れてしまったのだけど、彼女の母方の祖母が亡くなったので鎌倉まで行ったことがある。(いま嫁に確認したら結婚式の一年以上前だった)

店の営業が終わってから、ほぼ徹夜で新幹線に飛び乗って、乗り換えて、乗り換えて、江ノ電に乗った。降りたのが何という名前の駅だったかも忘れてしまった。確か『チャーミーグリーン』のCMに使われた”坂”がある街だったように聞いた記憶がある。

初めての鎌倉。
初めての顔合わせ(親戚の方々と)。
まさか、”家族席”に座ることになるとは思ってもみず。
…でもまあ、流れに任せて(それ以外に選択肢はない)、まな板の上の鯉になるしかない。

式が始まるのを待ちながら、この場合、僕は”参列”になるのか、”列席”になるのか、どっちなんだろうとか、徹夜明けのボヤけた頭でどうでもいいことを考え続けていた。

さて、お坊さんがお経を読んでいる間、問題が発生した。
それは大問題だった。

昨日の夕方から何も食べていない。新幹線の中でも、眠るつもりだったので、何も買ったりしてなかった。(結局、眠れなかったし)

人間、大抵の生理現象は短時間ならなんとか抑え込むことが出来る。そこは精神力だ。でも、お腹の虫が鳴く音は自分の意思でコントロール不能だ。

…しかし、だ。

”ここ”ではいけない。

人生の中で、いったいお腹の虫が何回くらい平均して鳴くのか知らないが、”今この場”は最もあってはならない場面ではないか。選りに選って、ここで鳴くか⁉︎

気のせいか、鳴く音が少しずつ大きくなっているし、間隔も早まってきている気がする。
しかしホントに自分ではどうしょうもないのだ、お腹の虫の音。

で、どうしたか。

連想した。

何か食べなきゃいけない→食べ物はない→あったとしても食べられない→空腹を抑えるときどうするか?→水をたくさん飲んでやり過ごす→水もない→じゃ、空気を飲もう
というわけで、式中ずっと目立たないように大きく息をパクパク吸って、お腹に送り込み続けたのだった。そのおかげで、たぶん見た目が本物の”(まな板の上の)鯉”になってたはずだ。

その日、夜から店を開けるので、一足早く失礼させてもらった。

江ノ電の駅(JRだったかも)で蕎麦を食べた。

鎌倉の店のBGMは、どこでもサザンがかかってるのかと想像していたのに、その蕎麦屋ではミッシェルポルナレフがバラードを歌っていた。

江ノ電に乗って移動中、途中の駅では小泉今日子と中井貴一がドラマのロケをやっていた。

やはり鎌倉は、お腹の虫が鳴ってはいけない街なんだとシミジミ思った。

よく「ご飯のかわりに酒を飲む」という人がいるけど、僕はまず”食べる”が優先だ。
写真はちょっと珍しい、”肉料理に合うジン”というコンセプトのシンケンヘーガー。
ラベルに肉が描かれてるの、たぶんこの酒だけじゃないかな。


2017年2月1日水曜日

折れた煙草は吸えません

クレタ人はいつも嘘をつく。


クレタ人である預言者がいいました。


「クレタ人はいつも嘘をつく悪い獣だ・・・」と。



『嘘つきパラドクス』の一節。   (実際はパラドクスではない)


誰かが「自分は嘘をついている」という。さて、それは本当のことを言っているのか、そもそも、それが嘘なのか?





“嘘つき“といえば有名なナゾナゾもある。

旅人のあなたは分かれ道にやってきた。 片方は正直村に、もう片方は嘘つき村へと続いている。正直村の住人は必ず正直な答えを言うが、嘘つき村の住人は必ず嘘の答えを言う。旅人は正直村に行きたいのだが、どちらの道が正しいのかを知らない。 そこに村人がやってきた。この村人はどちらの住人かはわからない。

旅人はこの村人に一回だけ質問をすることができる。はたしてその一度の質問で旅人は正直村に行く道を知ることができるだろうか?

答えは――――――― 。







もうけっこう長いつきあいになる小説家の友人(女性)がいる。世の中に”小説家”というものを生業にしている人が、いったい何人くらいいるのかは知らないが、たぶん珍しい部類にはいる友人なのだろうと思う。

まだ彼女が小説家ではなかった頃、もとは月読のお客様だったのだけど、彼女とは妙にウマがあったのだ。

理由はわかっている。僕が会話というキャッチボールを誰かとするとき、ときどき野球のボールではなく、何か変わったボールを投げてしまい、相手を不快にさせたり、もしくは退屈させたりしてしまうみたいで、でもその友人は僕と同じ種類のボールを投げるのが好きで、グローブも僕よりずっと大きなものを持っていたからだ。まあ俗にいう“メンドクサイ会話”が二人とも好きなのだ。

それで“店と客”だけではなく、たまにお互いの夫婦を家に招いて食事をしたりするようになった。





作家になってから、彼女は律儀にも新刊が出るたびに月読に届けてくれていて、たまに作品の中に月読の風景をそっと登場させてくれたりもしている。(もちろん屋号は出ていない)それは店の窓から見える電柱だったりするのだけれど、もしかしたら僕の思いすごしも多分にあるのかもしれない。



あるときはこんなこともあった。

「マスター、今度の本にこの前、マスターが言ってたセリフを使わせてもらいました」と。

この前っていつだ…? いったい僕はどんなことを彼女に言ったのか? 訊いたけど教えてはくれなくて、「探してみてください」という。

ハラハラしながらそのセリフを探したが、さっぱり覚えていないので結局わからないままだ。






そんなことが色々ありつつ、昨年末、彼女が新刊をもってきてくれた。それは何人もの小説家の作品が載っている月刊誌だった。

「今回はエッセイで短いですけどね。あと、少しだけ月読のことを書かせてもらいました。事後報告でごめんなさい」と彼女がいう。

内容は彼女の自伝的なもので、月読が載っているとはいっても、読者にわかるほどのこともなく、ほとんど”通行人A”みたいな感じで、わざわざ断りを入れなければならないようなものではなかった。それどころか作品に少しでも使ってもらえるのはありがたいことだと思う。

その時間、お客様は彼女しかいなかったので、僕はカウンターの中で立ったまま、その月刊誌をパラパラと流し読みをした。月読がどんな風に登場しているのかを知りたかったからだ。本題である彼女の自伝的な部分は、読まなくても”もう知っていること”だった。たった2ページに凝縮された半生は、今まで彼女と話した時間に比べるとずいぶんと短い。

さっと読み流し、彼女のほうを見ると、「“ここ”(私の目の前)で読まないで下さい」と珍しく照れくさそうな顔をした。それが“小説“であるときはそんな表情はけっして見せないのだろうけど、自分自身について書いたエッセイは、はやり彼女でも―――つまりプロの作家でも恥ずかしいものなのだろうか?

僕がそう思ったのを感じ取ったのかどうかわからないが、すぐそのあとで彼女が付け加えるみたいにこういった。

「作家は嘘つきですから」


もともと彼女の瞳は猫のようだと思っていた――――が、少し光った気がした。

嘘つきですから 

嘘つきですから

嘘つきですから…

僕の頭の中で、そのセリフが繰り返し繰り返し、妙に印象に残った。




エッセイに書かれていた内容は、今までに彼女の口から聞いて知っていたものと相違はなかった。嘘ではない。

では、いったいなにが嘘なのだろう。


「嘘つきですから」 ――― 嘘つきの嘘は真実か? 


「嘘つきですから」 ――― 正直村に行くにはどちら?




僕はナゾナゾの答え、正直村への行き方を知っている。だけど彼女のいった“嘘“について辿り着く方法を知らない。でもそれでいいのだ。

たぶん「バーテンダーも作家に負けず劣らず、かなりの嘘つきなのだから」。






ところで、意外なことにカクテルの名前に“嘘つき”(ライアー)とか“正直”(オネスティー)とかいうネーミングのものはない。個人の店などで創作されたものはあるかも知れないけど、スタンダードカクテルにはない…ありそうなのにね。

だからなにかのカクテルを“嘘”にこじつけて紹介しようかとも思ったけれど、やっぱりやめておくことにした。

だって僕は正直村の住人だから ――― さて、このウソ…