日曜日、真夜中の少し前。
最後のお客様を見送るために階段を降りて富小路通りにでた。
すると南側の御池通りから歌声が聞こえてきた。
かなり遠いところから聞こえてくるのに大音量なので、「おやおや、酔っ払いのおっちゃんか…」と考え、北の方角に帰るお客様を見送ったあと、いずれ自分の前を通るであろう、その酔っ払いとおぼしきおっちゃんと目を合わさないようにしょう、と考えた。
からまれたくはないし、店に入ってこられても迷惑だ。
ただ、背中から近づいてくる歌声は素晴らしく上手だった。
菅原洋一とフランク永井を足して二で割った様な声と、カラオケルームでエコーを最大限に効かせたようなコブシまわし。
曲は浪曲の様にも聞こえたけれど何語か分からなかった。
異国の唄と浪曲が混ざり合った、混沌とした響き。それでいて心地よい。
お客様が遠くに消えていったのを確認して店に入ろうとした時、背中のやや近いところで歌声が止んだ。
振り向くと白いハットをかぶって、白いジャケットを着た五十代後半から六十半ばの歳の頃のおじさんがシャンと背筋を伸ばして立っていた。
両手は風呂敷の様なものと、手桶の様なもので塞がれていて、富小路通を挟んで僕と対になる立ち位置で電信柱の側。
その立ち姿は”酔っ払い”ではなく、完全にシラフであり、僕の見当は見事にハズレだった。
ハットに半分隠された顔立ちは北欧?を思わせるような感じで日本人では明らかにない。
でも始終、和かな表情を浮かべて、どちらかというと安心感さえ醸し出しているように思えた。
「こんばんは」とややふっくら目のその北欧おじさんは僕に話しかけた。
「コンバンハ」ではない、「こんばんは」なのだ。
つまり何の濁りもない、まごう事なき日本語。
挨拶を返すと、彼は言った。
「下の店と上は違うのですかな?」
「ええ、違います」
「どちらが”馬”の店ですか」
一階の馬刺しのお店には壁に大きなペナントが張り出してあり、”馬”という字が目立っている。
「馬刺しのお店は一階です」と僕は答える。
すると北欧おじさんが重ねて尋ねた。
「では二階のお店はなんですかな?」
「二階はバーなんです」
「そうですか。私はお酒は殆ど飲みませんからな…いや、なに、前から気になってましてね…」
僕は二階の窓から十年以上、この通りの景色を眺めてきたけれど、北欧おじさんは初めてお見かけするはずだ。
でも”前から気になっていた”という事は何度もこの通りを行き来しているという事だ。
「お近くの方ですか?」と僕が尋ねたら、少し笑ったような顔をしたまま、頷いたようだった。
「だいぶん涼しくなりましたな」と最後に北欧おじさんは言い、それから身体を北向きに返しながら軽く右手でハットを取って会釈をしながら去って行った。
歌声はさっきよりはやや小さめの音量で。
僕は階段を上がり店に戻りながらこんなことを考えていた。彼が酔っ払いでなく、からまれずに良かったこと。不思議な唄はなんと言う曲で、彼は結局、何人なんだろうという事。何故かしら爽やかで得をした気分になってるのはなんでだろうという事などについて。御近所ならまた会えるのだろうか、とも。
一通り考えたあと、でもアレ?なんか変だな。どっか引っかかるなあ…と妙に気になった。
下から戻ってきて1分後か、2分くらい過ぎていただろうか…
あっ!
あの時、ハットを取って会釈をした時‼︎
両手にあった風呂敷と手桶みたいな荷物、あれどうなってたんだろう? とても二ついっぺんに片手に持てるものではなかったはずだ。
歩き出す時の動作だったので地面に置いたはずもなく、後ろ姿には両手に荷物が確かにあった。
いったい彼はどうやってハットをとったのだろう…
階段を降りて、彼の去った方角を見た。
何処か脇の家に入ったのか、それとも路地を曲がったのか、もう彼は見えなかったし、歌声も聞こえてはこなかった。
シェイクスピアの戯曲のタイトルが頭に浮かんだ。
真夏の夜の夢…
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