友人に川越を案内してもらってちょっと遅めのお昼ごはん、美味い蕎麦にありつく。
蕎麦の本場はなんと言っても東だ。「関西から来た客人はこれだから分かってないねぇ、蕎麦の食べ方がよぉ」などとバカにされる訳にはいかない。よって席に座っていきなり最初から蕎麦を注文するなどという無粋な真似はしてはいけない。
仕方がない、まずは酒とアテを頼むより他はない。我々の所作如何によって関西人の沽券がかかっている。したがってここは基本に忠実にいかねばならないのだ。
暑かったのでまずは地元のビール、それとオススメの油揚げステーキと郷土料理のこづゆ、あとは青豆豆腐の冷奴を注文した。蕎麦は一杯ひっかけた後だ。
そんなこんなで時間は過ぎ、アテは無くなって行った。そして〆の蕎麦を注文し、出されるのを待つ間に残っている青豆豆腐を箸で突きながら諺について考えていた。
ソクラテスやプラトンもきっとこんな時間帯に自己問答していたはずだ。
猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏という、ほぼ意味の等しい、動物の出てくる諺がある。言うまでもなく、価値の分からないものにいくら値打ちのあるものを与えても意味がないことを指す。
しかし待てよ?
猫に小判の値打ちは分からない→人には分かる。
豚に真珠の価値は分からない→人には分かる。
でも馬に有難い念仏の意味は分からない→人には分かる…は成立しないのではないか?
有難い念仏の値打ちを理解する人は如何程いるだろうか?
例えば今日みたいな暑い日。
「早くウチに帰って冷たいビールでも飲みながら冷奴でも食べたいなあ」と、考えている人間にだ。耳元でいくらアラブの偉いお坊さんが念仏を唱えても、きっとそれをされた人は恐れ慄き、訝しがるに違いない。
「何なんだ?アンタはいったい!」と。
残念ながら「やがて心うきうき」とは決してなりはしない。
…というような訳で詰まるところ、ここでは猫と豚は共通のグループだが、馬は仲間はずれになってしまう。これではいけない。
方法はある。
動物三点セットの諺にしたければ「馬の耳に念仏」をやめて「馬耳豆腐」にすればいいだけだ。
わっかるかなー?
わかんねーだろなー
そんな事を考えながら最後の青豆豆腐の冷奴を口に運んだとき、ソクラテスの背中が確かに見えた気がした。
関西人の沽券が守られた昼下がり、蕎麦は本当に美味しかったよ。
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