数日前の午後。
近所の商店街を歩きながら、あまりに暖かいので”小春日和”だなあ…と思いかけてー
ーいや、もう冬だから小春日和とはいえないなあ、と独り言を口にした。
英語では小春日和の事をインデアンサマーと言うそうだ。
冬がくる前に神様が一服してキセルを吹かし、その煙の温かさで数日間、夏のように暖かくなるのだと。
僕はこのインデアンサマーというコトバがとても好きなのだ。
それは乾いた青色を思い浮かべるから。ただそれだけで他にさしたる理由は見つからない。
インデアンジュエリーに使うトルコ石の青。もしかしたら、そんな単純な連想なのかもしれない。
僕にはもう一つ、乾いた青色を思わせるものがあるー
ーそれは歌。
テネシーワルツを聞くと何故か乾いた青色が頭の中に広がってくる。
歌詞自体は友人に恋人を紹介したら奪われてしまったという湿っぽい内容なのだけれど、曲の印象はカラッとした青が流れるみたいに聞こえてくる。少なくとも僕にはそう思える。
テネシーには…もちろん行ったことはないので景色は浮かんではこない。
テネシーワルツを聞きながら飲むのなら、やはりテネシーウイスキーのジャックダニエルか。
そう言えばこのウイスキーも乾いた味がする。
曲を聞きながら、酒を飲みながら、そして絵を見ながら、旅の思い出についても考えてみる。
それが雨の日であろうと、湿った森の中であろうと、時間がたっとその景色は乾いた色になるのは何故なんだろう。
昆虫や草花が標本箱の中でピンに留められているのと同じだろうか。
美しく哀しく乾いた青。
通勤途中のクリスマスイルミネーションを見ながら、インデアンサマーではなく、本当の春が待ち遠しい。
南の島の友人が届けてくれた来年のカレンダーを見ながら、そんな事を考えていた。
SINCE 2004
京都の繁華街から外れた場所。
ジャズレコード、蓄音機、シーメンスのスピーカー、ビリヤード台、昭和歌謡、古書…シングルモルトをはじめとする蒸留酒とスタンダード・カクテル。
外の世界とは少しだけ時間の流れが違う場所。
詳しくはオフィシャルサイトをご覧下さい
2013年12月8日日曜日
2013年12月4日水曜日
温州みかんのスクリュードライバー
伊予産の温州みかんをたくさん頂いたので、それを使ってカクテル、スクリュードライバーを作ってみました。
もともと僕はアメリカ産のオレンジは果汁を絞ると力のない痩せた味になるので好きではなく、『オレンジ系カクテル=夏蜜柑最高説』を唱えています。(笑)
で、温州みかんですが、これは酸味が少なくとても優しい味なので、こたつで食べると最高ですがカクテルの材料としては明らかに不向きといえます。
そんな条件の中、幾つかあるオレンジ系カクテルの中でスクリュードライバーを選んだのはベースのウオッカにクセがないので温州みかんのやわらかな個性を崩さないという理由から。
さて、優しすぎる味にアクセントを加える工夫をしましょう。
生姜の絞り汁を少々混ぜ、果肉を加え、仕上げにブラックペッパーを軽く擦りおろして仕上げます。
柑橘系ジュースと生姜は相性が良く味が複雑になり、そこにブラックペッパーの辛味がほんの少し後を引きます。
これはウオッカを抜いて、ただの温州みかんのオレンジジュースに使っても、オトナなオレンジジュースとしてかなりオツな味です。
胡椒ですが、ウオッカにペッパーウオッカという胡椒味の銘柄が存在しますが、ここはやはりフレッシュな胡椒を使いたいところですね。
これだけ副材料を足してはたしてスクリュードライバーと言えるかどうかが問題ですが、まあマティーニにレモンピールをするのと同じ…ということでひとつ。
もともと僕はアメリカ産のオレンジは果汁を絞ると力のない痩せた味になるので好きではなく、『オレンジ系カクテル=夏蜜柑最高説』を唱えています。(笑)
で、温州みかんですが、これは酸味が少なくとても優しい味なので、こたつで食べると最高ですがカクテルの材料としては明らかに不向きといえます。
そんな条件の中、幾つかあるオレンジ系カクテルの中でスクリュードライバーを選んだのはベースのウオッカにクセがないので温州みかんのやわらかな個性を崩さないという理由から。
さて、優しすぎる味にアクセントを加える工夫をしましょう。
生姜の絞り汁を少々混ぜ、果肉を加え、仕上げにブラックペッパーを軽く擦りおろして仕上げます。
柑橘系ジュースと生姜は相性が良く味が複雑になり、そこにブラックペッパーの辛味がほんの少し後を引きます。
これはウオッカを抜いて、ただの温州みかんのオレンジジュースに使っても、オトナなオレンジジュースとしてかなりオツな味です。
胡椒ですが、ウオッカにペッパーウオッカという胡椒味の銘柄が存在しますが、ここはやはりフレッシュな胡椒を使いたいところですね。
これだけ副材料を足してはたしてスクリュードライバーと言えるかどうかが問題ですが、まあマティーニにレモンピールをするのと同じ…ということでひとつ。
2013年11月23日土曜日
2013年11月14日木曜日
苦い友人
何気なく本棚に目をやったとき、懐かしいものと目が合った。
『ふたごのでんしゃ』
小さい頃に一番好きだった本。正確には”寝付くまで何度も繰り返し読んでもらった児童書”。
古い友達といえるかも知れない。
当時から40年以上過ぎた今、この古い友人と意思の疎通ははかれるのだろうか。
読むのを少し躊躇う。
古い友人といえば、カクテルにオールドパルというスタンダードなものがあるのだけれど、このカクテル、殆どのカクテルブックに載っているにもかかわらず、その由来は書かれていない。
わずかにある情報といえば、禁酒法時代以前からある古いカクテルということと、名前の良さだけでスタンダードカクテルになったとかいう酷い説明だけ。
たとえばマルガリータなんかは狩猟に出かけて流れ弾にあたって亡くなった恋人を偲んで創ったというエピソードが有名なのでロマンティックな場面でよく使われる。つまり恋のカクテルという訳で、これなんかは注文するお客様の方も、お任せで頼まれて作るバーテンダーの方も非常に”意味”として扱いやすいカクテルだ。
ところがオールドパルはそう簡単にはいかない。例えば同窓会の二次会なんかで連れ立ってバーに行ったときに頼めばいいじゃないか、と思うかもしれない。けれどそう簡単ではないのだ。
残念な事に味が万人受けしない。
マルガリータは多くの人に愛飲される爽やかで甘酸っぱい味であり、『亡き恋人を偲ぶ』=『マルガリータの味』にちゃんとリンクしている。
ところがオールドパルはアルコール度数が強くて苦い。材料はすべてお酒、そして味の決め手はカンパリという、よく知られた苦味のあるリキュールが中心となっている。
ベースのお酒はライウイスキーというパンチの効いた癖のあるアメリカ系ウイスキー。
どうしてこれにオールドパルなんて名前を付けたのだろう?
『古い友達』は穏やかで優しく、温まるような甘い香りを醸すカクテルであるべきだったのではないのだろうか?
レシピを考えてもアメリカ生まれの癖のあるローカルな酒+イタリアンなカンパリまでだと、何となくゴットファーザーなんかをイメージ出来るのだけど、そこにフランス産のベルモットまでもが混ざってくるとオリジナルを創った人の意図が見えなくなってくる。
古い友人のイメージは苦甘いだろうか?
少なくとも僕が古い友人を思い出すとき、そこに苦さは感じないのだけれど。
カクテルだけでなく酒全般にいえることなのだけど、単に味が美味しいかだけでなく、そこに内包された意味やあるいは風景や歴史なんかを頭の中で味わうという楽しみも存在する。
クラシック音楽なんかでもそうだけど、ピアニストがその楽曲をどう解釈するかで旋律が違って聴こえるように。
つまりカクテルでもオールドパルのようなタイプはオリジナルの創り手の意とは違ったとしても、今現在の作り手や飲み手がどう解釈するかで味が変わり、違う楽しみ方が増すのだろう。
『ふたごのでんしゃ』を読まずにテーブルの上に置いて暫く眺めてみると、物語の内容よりも遠い日の風景のほうが先に頭の中に浮かんできた。
いつの間にかソファーの隣に小さい頃の自分が横に並んで座っていて、両足を前後にバタバタさせながらテーブルに置かれたふたごのでんしゃを「早く読んでくれないかなー」というように少し距離をとってじっと見ている。
今現在の僕とは違い、瞳はまだ綺麗に澄んでいる。
過去のそれぞれの場面に在る自分自身、これもまた『古い友達』なのだろう。
彼等と対面するときは甘く、そしてちょっとだけ苦い。
僕はオールドパルをそう解釈することにした。
『ふたごのでんしゃ』
小さい頃に一番好きだった本。正確には”寝付くまで何度も繰り返し読んでもらった児童書”。
古い友達といえるかも知れない。
当時から40年以上過ぎた今、この古い友人と意思の疎通ははかれるのだろうか。
読むのを少し躊躇う。
古い友人といえば、カクテルにオールドパルというスタンダードなものがあるのだけれど、このカクテル、殆どのカクテルブックに載っているにもかかわらず、その由来は書かれていない。
わずかにある情報といえば、禁酒法時代以前からある古いカクテルということと、名前の良さだけでスタンダードカクテルになったとかいう酷い説明だけ。
たとえばマルガリータなんかは狩猟に出かけて流れ弾にあたって亡くなった恋人を偲んで創ったというエピソードが有名なのでロマンティックな場面でよく使われる。つまり恋のカクテルという訳で、これなんかは注文するお客様の方も、お任せで頼まれて作るバーテンダーの方も非常に”意味”として扱いやすいカクテルだ。
ところがオールドパルはそう簡単にはいかない。例えば同窓会の二次会なんかで連れ立ってバーに行ったときに頼めばいいじゃないか、と思うかもしれない。けれどそう簡単ではないのだ。
残念な事に味が万人受けしない。
マルガリータは多くの人に愛飲される爽やかで甘酸っぱい味であり、『亡き恋人を偲ぶ』=『マルガリータの味』にちゃんとリンクしている。
ところがオールドパルはアルコール度数が強くて苦い。材料はすべてお酒、そして味の決め手はカンパリという、よく知られた苦味のあるリキュールが中心となっている。
ベースのお酒はライウイスキーというパンチの効いた癖のあるアメリカ系ウイスキー。
どうしてこれにオールドパルなんて名前を付けたのだろう?
『古い友達』は穏やかで優しく、温まるような甘い香りを醸すカクテルであるべきだったのではないのだろうか?
レシピを考えてもアメリカ生まれの癖のあるローカルな酒+イタリアンなカンパリまでだと、何となくゴットファーザーなんかをイメージ出来るのだけど、そこにフランス産のベルモットまでもが混ざってくるとオリジナルを創った人の意図が見えなくなってくる。
古い友人のイメージは苦甘いだろうか?
少なくとも僕が古い友人を思い出すとき、そこに苦さは感じないのだけれど。
カクテルだけでなく酒全般にいえることなのだけど、単に味が美味しいかだけでなく、そこに内包された意味やあるいは風景や歴史なんかを頭の中で味わうという楽しみも存在する。
クラシック音楽なんかでもそうだけど、ピアニストがその楽曲をどう解釈するかで旋律が違って聴こえるように。
つまりカクテルでもオールドパルのようなタイプはオリジナルの創り手の意とは違ったとしても、今現在の作り手や飲み手がどう解釈するかで味が変わり、違う楽しみ方が増すのだろう。
『ふたごのでんしゃ』を読まずにテーブルの上に置いて暫く眺めてみると、物語の内容よりも遠い日の風景のほうが先に頭の中に浮かんできた。
いつの間にかソファーの隣に小さい頃の自分が横に並んで座っていて、両足を前後にバタバタさせながらテーブルに置かれたふたごのでんしゃを「早く読んでくれないかなー」というように少し距離をとってじっと見ている。
今現在の僕とは違い、瞳はまだ綺麗に澄んでいる。
過去のそれぞれの場面に在る自分自身、これもまた『古い友達』なのだろう。
彼等と対面するときは甘く、そしてちょっとだけ苦い。
僕はオールドパルをそう解釈することにした。
2013年10月14日月曜日
重陽の節句
菊酒を漬けました。
昨日は陰暦の九月九日で重陽の節句です。
奇数は陽で、その最大の数が重なるこの日はおめでたい日とされてきました。
菊の季節とあって昔から無病息災や厄除の願いを込めて菊酒が飲まれてきたのですが、最近は花びらを浮かべるだけのものが多くみられます。
今回は古式に則って三日程ですが伊勢錦の純米酒に漬け込みます。
菊は食用のものですが、八百屋さんに頼んで、かなり減農薬のものを用意してもらいました。菊は虫がつきやすく、無農薬のものは手に入りませんでした。
水でよく洗ってから、梨木神社の湧き水で清めて仕込んであります。
あとは少し月光に晒して、重陽の節句を待ちました。
菊の花を漬けて一日目はちょっと苦味が出ましたが三日目にはそれが甘味に変わっていました。砂糖を入れたわけではありませんが、リキュールに近い味です。
ぜひ来年もしたいですね。
昨日は陰暦の九月九日で重陽の節句です。
奇数は陽で、その最大の数が重なるこの日はおめでたい日とされてきました。
菊の季節とあって昔から無病息災や厄除の願いを込めて菊酒が飲まれてきたのですが、最近は花びらを浮かべるだけのものが多くみられます。
今回は古式に則って三日程ですが伊勢錦の純米酒に漬け込みます。
菊は食用のものですが、八百屋さんに頼んで、かなり減農薬のものを用意してもらいました。菊は虫がつきやすく、無農薬のものは手に入りませんでした。
水でよく洗ってから、梨木神社の湧き水で清めて仕込んであります。
あとは少し月光に晒して、重陽の節句を待ちました。
菊の花を漬けて一日目はちょっと苦味が出ましたが三日目にはそれが甘味に変わっていました。砂糖を入れたわけではありませんが、リキュールに近い味です。
ぜひ来年もしたいですね。
2013年10月13日日曜日
上弦の月
10月12日
今夜は半月、上弦の月です。
上弦の月というのは、弦が見かけ上、上にあろうが下にあろうが、満月に向かって満ちていく過程の半月のことです。逆に満月から欠けていって半月になった時、下弦の月といいます。単純に半月の時、月に向かって弦が左にあれば上弦の月です。
ある研究によると、統計で満月の時は放火などの凶悪犯罪が多く、半月はその反対に注意力散漫になりやすく、交通事故などが多いと聞きます。
さて、今日は欠品したウイスキーを仕入れにいきました。
よく女の人がストレス解消に買い物をすると聞きますが、確かに仕入れにいって、いろいろと物色し、気に入ったボトルを手に入れるのはとても楽しいので、その気持ちはよく分かります。
しかし、それも元手があっての事、今日は仕入れ基金がいつになく切迫しているので、必要なボトル以外は決して買うまいぞ‼ とカタク心に誓って行ったのです。
酒屋に入るや否や、店長が「いらっしゃいませ」のあと、間髪入れずに「今日は押し売りするボトルがあります⁈」ときた。
シングルモルト、タリスカのストームという新製品。
これは従来のものより、癖が強化されていると考えてもらえばいいのですが、このタリスカ、スタンダードのものはウイスキーにしては珍しい瓜系フルーツ、つまりメロンやスイカのフレーバーを持っていて、個人的にも大好きなウイスキーのひとつなのですが、癖が強化されても、その瓜系フルーツのフレーバーが感じられるかどうか? とても興味深いところです。
…あーあ、買っちゃったよ…
…! しまった、今日は半月だった。
じゃ、仕方なし。月のせいだ。
という訳で、ただ今、お客様に口開けをしてもらうか、先にテイスティングするべきか思案中。
本来ならお客様に口開けしてもらうのが筋なのでしょうが、今日はどーかなぁ?
上弦の月だし、ついウッカリ開けてしまうかもなぁ。
今夜は半月、上弦の月です。
上弦の月というのは、弦が見かけ上、上にあろうが下にあろうが、満月に向かって満ちていく過程の半月のことです。逆に満月から欠けていって半月になった時、下弦の月といいます。単純に半月の時、月に向かって弦が左にあれば上弦の月です。
ある研究によると、統計で満月の時は放火などの凶悪犯罪が多く、半月はその反対に注意力散漫になりやすく、交通事故などが多いと聞きます。
さて、今日は欠品したウイスキーを仕入れにいきました。
よく女の人がストレス解消に買い物をすると聞きますが、確かに仕入れにいって、いろいろと物色し、気に入ったボトルを手に入れるのはとても楽しいので、その気持ちはよく分かります。
しかし、それも元手があっての事、今日は仕入れ基金がいつになく切迫しているので、必要なボトル以外は決して買うまいぞ‼ とカタク心に誓って行ったのです。
酒屋に入るや否や、店長が「いらっしゃいませ」のあと、間髪入れずに「今日は押し売りするボトルがあります⁈」ときた。
シングルモルト、タリスカのストームという新製品。
これは従来のものより、癖が強化されていると考えてもらえばいいのですが、このタリスカ、スタンダードのものはウイスキーにしては珍しい瓜系フルーツ、つまりメロンやスイカのフレーバーを持っていて、個人的にも大好きなウイスキーのひとつなのですが、癖が強化されても、その瓜系フルーツのフレーバーが感じられるかどうか? とても興味深いところです。
…あーあ、買っちゃったよ…
…! しまった、今日は半月だった。
じゃ、仕方なし。月のせいだ。
という訳で、ただ今、お客様に口開けをしてもらうか、先にテイスティングするべきか思案中。
本来ならお客様に口開けしてもらうのが筋なのでしょうが、今日はどーかなぁ?
上弦の月だし、ついウッカリ開けてしまうかもなぁ。
2013年10月7日月曜日
悪魔は囁く
夜に爪を切るとどうなるか?
夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなる。だからしてはいけない。
昔から禁忌とされてきたことのひとつです。
元々の理由は語呂合わせで『世を詰める』、つまりは短命になるので親の死に目に会えないとか、今ほど明かりがなかった時代に手元がよく見えないのに爪を切るとケガの元だから、ということらしい。
爪切りの怪我くらいで何を大袈裟な…と思うかもしれませんが、主に農作業をしていた民族ゆえ、医療の未発達だった時代には手元の傷は破傷風などにかかりやすく、命を落とす原因に成り得たということです。
僕はこの二つのうち、二番目の理由は知ってはいましたが、自分なりにはこう解釈していました。
それは祈りに似たマジナイのようなものではなかったかと。
願いはその思いが強くあるほど叶いやすい。
親より先に死ぬのは最大の親不孝であるとよく言われます。今よりももっともっと死というものが身近であった時代、親を看取るのは難しく、たとえ長く生きたとしても臨終の際に死に目に会うというのは中々叶わない願いだったのではないだろうかと。もちろん、自分自身の問題としても長生きはしたい。
そんな願いをささやかに言い伝えにのせる。『夜に爪を切ると親の死に目に会えない』と。
そうするとどうなるか?
夜はもちろん、朝昼であろうとも爪を切るときはその禁忌を思い出す。そしてその都度、願うだろう。「ああ、今は夜でないから大丈夫だ」(=長生きしたい)と。
知らず知らずのうちにそれは祈りになり、願掛けになり、その回数は重なっていく。
そういうものだと思っていました。
もちろんこれは僕自身の解釈であり、正しいわけではない。
でもなんにつけ、こういったことに対して間違っていようがいまいが関係なく、考え、想像するということがとても大事なことだと思うのです。
この『夜に爪を…』とか『夜に口笛を吹くと…』というのはどこか『魔との邂逅』を思わせます。
不吉なことを行うとどこからともなく悪魔(和の禁忌で悪魔というのも変ですが…鬼と言うべきか?)がやってきて不幸にしてしまうというように。
でも思うに魔(鬼)というのは一見、凶暴で暴力的に思ってしまいがちですが、きっと彼らは直接、ヒトに対して物理的な危害を加えることはしないし、出来ないのではないか。
魔(鬼)が出てきて人にするのは”囁く”ということ。
耳元で小さく。
それはしてはいけない事をするように、行ってはいけない方向へ向かうように、ヒトの迷いや弱い心に付け込んで、そっと背中を後押しする。
それはとても心地いい囁きなのです。
もう一度、夜の爪切りの話に戻ります。
先日、高校の同級生たちと会った時のこと。彼らの数人には子供がいて、その教育の話になたとき。
民間の有名な大手教育会社ががあるのですが、その教育機関が発行している子供向けの本に書かれているそうなのです。
「”夜に爪を切ると親の死に目に会えない”というのは迷信です。だから夜に爪を切っても大丈夫です」と。
実際、お風呂上がりの方が爪が柔らかくなっていて切りやすいので、夜に爪を切る人も多いらしいのですが。
ただねえ、どうも釈然としないというか、なんか不気味なんですよね、その話を聞いて。
いいんですよ、夜に爪を切ろうが切るまいが。その人の自由なんだし。
『夜に爪を…』の禁忌の理由も今となっては無意味だし。
でも教育機関が「~は迷信だから大丈夫」というのはなんか胡散臭いんだなあ。
それって完全にマニュアル化でしょ?
考えなくていいよ、想像しなくていいよ。これは機械的に覚えとけば間違いないからって。
マニュアルに素直に従う人間て楽でいいんですよね、権力者や為政者にとって。プロパガンダにもすぐに靡(なび)いちゃうし。
多くの場合、答えなんてひとつではないし、答えがひとつの簡単な数式であったとしても、1+1=2と初めてそれを習った子供が石ころやビー玉を数えて確認する、その行為が大事な訳で。
「あなたの好きな人のタイプを教えてください」という問いかけに対して、「優しい人」「思いやりのある人」と答える人は多いですよね。
でも、”優しい”とか”思いやり”というのはいつもいつも目に見える簡単な出来事だけじゃなく、
むしろ考えたり、想像しないと出来ないことの方が遥かに多くあるのです。
優しさも、思いやりも、考え、想像した挙句の次の行動であるはずです。その訓練をしなければどうなるのだろう。
詰まるところ、たとえば、
電力が不足しています=原発、仕方ないですね。
領土問題、危機ですよ=軍強化、憲法改正仕方なし。
…みたいな短絡的な思考に陥って、予め用意された答えにあたかも自分が考えてたどり着いたみたいに思い込まされるようになってしまうでしょう。
その石ころを人ごみに向って投げたらどうなるか? 想像力があるから投げないでいられるはずなのです。
昔から云い伝わる諺や禁忌は本来の意味だけでなく、想像力を養うものではなかったか?
短絡的な答えを与えておいて、考えることや想像することをやめさせる教育者、権力者、為政者のコトバは悪魔の囁きのように思えてならないのです。
夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなる。だからしてはいけない。
昔から禁忌とされてきたことのひとつです。
元々の理由は語呂合わせで『世を詰める』、つまりは短命になるので親の死に目に会えないとか、今ほど明かりがなかった時代に手元がよく見えないのに爪を切るとケガの元だから、ということらしい。
爪切りの怪我くらいで何を大袈裟な…と思うかもしれませんが、主に農作業をしていた民族ゆえ、医療の未発達だった時代には手元の傷は破傷風などにかかりやすく、命を落とす原因に成り得たということです。
僕はこの二つのうち、二番目の理由は知ってはいましたが、自分なりにはこう解釈していました。
それは祈りに似たマジナイのようなものではなかったかと。
願いはその思いが強くあるほど叶いやすい。
親より先に死ぬのは最大の親不孝であるとよく言われます。今よりももっともっと死というものが身近であった時代、親を看取るのは難しく、たとえ長く生きたとしても臨終の際に死に目に会うというのは中々叶わない願いだったのではないだろうかと。もちろん、自分自身の問題としても長生きはしたい。
そんな願いをささやかに言い伝えにのせる。『夜に爪を切ると親の死に目に会えない』と。
そうするとどうなるか?
夜はもちろん、朝昼であろうとも爪を切るときはその禁忌を思い出す。そしてその都度、願うだろう。「ああ、今は夜でないから大丈夫だ」(=長生きしたい)と。
知らず知らずのうちにそれは祈りになり、願掛けになり、その回数は重なっていく。
そういうものだと思っていました。
もちろんこれは僕自身の解釈であり、正しいわけではない。
でもなんにつけ、こういったことに対して間違っていようがいまいが関係なく、考え、想像するということがとても大事なことだと思うのです。
この『夜に爪を…』とか『夜に口笛を吹くと…』というのはどこか『魔との邂逅』を思わせます。
不吉なことを行うとどこからともなく悪魔(和の禁忌で悪魔というのも変ですが…鬼と言うべきか?)がやってきて不幸にしてしまうというように。
でも思うに魔(鬼)というのは一見、凶暴で暴力的に思ってしまいがちですが、きっと彼らは直接、ヒトに対して物理的な危害を加えることはしないし、出来ないのではないか。
魔(鬼)が出てきて人にするのは”囁く”ということ。
耳元で小さく。
それはしてはいけない事をするように、行ってはいけない方向へ向かうように、ヒトの迷いや弱い心に付け込んで、そっと背中を後押しする。
それはとても心地いい囁きなのです。
もう一度、夜の爪切りの話に戻ります。
先日、高校の同級生たちと会った時のこと。彼らの数人には子供がいて、その教育の話になたとき。
民間の有名な大手教育会社ががあるのですが、その教育機関が発行している子供向けの本に書かれているそうなのです。
「”夜に爪を切ると親の死に目に会えない”というのは迷信です。だから夜に爪を切っても大丈夫です」と。
実際、お風呂上がりの方が爪が柔らかくなっていて切りやすいので、夜に爪を切る人も多いらしいのですが。
ただねえ、どうも釈然としないというか、なんか不気味なんですよね、その話を聞いて。
いいんですよ、夜に爪を切ろうが切るまいが。その人の自由なんだし。
『夜に爪を…』の禁忌の理由も今となっては無意味だし。
でも教育機関が「~は迷信だから大丈夫」というのはなんか胡散臭いんだなあ。
それって完全にマニュアル化でしょ?
考えなくていいよ、想像しなくていいよ。これは機械的に覚えとけば間違いないからって。
マニュアルに素直に従う人間て楽でいいんですよね、権力者や為政者にとって。プロパガンダにもすぐに靡(なび)いちゃうし。
多くの場合、答えなんてひとつではないし、答えがひとつの簡単な数式であったとしても、1+1=2と初めてそれを習った子供が石ころやビー玉を数えて確認する、その行為が大事な訳で。
「あなたの好きな人のタイプを教えてください」という問いかけに対して、「優しい人」「思いやりのある人」と答える人は多いですよね。
でも、”優しい”とか”思いやり”というのはいつもいつも目に見える簡単な出来事だけじゃなく、
むしろ考えたり、想像しないと出来ないことの方が遥かに多くあるのです。
優しさも、思いやりも、考え、想像した挙句の次の行動であるはずです。その訓練をしなければどうなるのだろう。
詰まるところ、たとえば、
電力が不足しています=原発、仕方ないですね。
領土問題、危機ですよ=軍強化、憲法改正仕方なし。
…みたいな短絡的な思考に陥って、予め用意された答えにあたかも自分が考えてたどり着いたみたいに思い込まされるようになってしまうでしょう。
その石ころを人ごみに向って投げたらどうなるか? 想像力があるから投げないでいられるはずなのです。
昔から云い伝わる諺や禁忌は本来の意味だけでなく、想像力を養うものではなかったか?
短絡的な答えを与えておいて、考えることや想像することをやめさせる教育者、権力者、為政者のコトバは悪魔の囁きのように思えてならないのです。
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