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2016年3月11日金曜日

魔法を解く

魔法をかけるのは容易にはいかない、でも解くのは簡単だ…

先月、友人が集まってそれぞれの好きな映画を観るという、毎月の恒例行事で、村上春樹原作、市川準監督の『トニー滝谷』を観た。

今回、この映画を推したのは他でもない僕だ。つまりもう既に何回か繰り返して、この作品を観ているわけだ。



この映画は”孤独”をテーマにして描かれている。それがどのような孤独なのかは見る側のそれぞれの主観であるのだけれど、”孤独”ということについての大きな的は、どれだけ偏屈な人であろうと、そうそう異存のあるものではないと思う。

ただ僕はこの映画を観るとき、それとは違ったパーツに心が向いてしまう。それは”魔法を解く”ということだ。

人は往々にして”魔法がかかる”ことを願う。ここでいう”魔法”とは、ある種の奇跡のことだ。願望、祈りが叶うこと、と言い換えてもいい。あくまでも「テクマクマヤコン」や「アラビン、土瓶、ハゲチャビン」で叶う類のものではない。

たとえば誰かに恋をする。それはあまりにも素敵な女性だ。省みて自分といえばなんの取り柄もない。気の利いた誘い方もできないし、お洒落な店を知っているわけでもない。服装も野暮ったいし、仕事だって魅力的ではない…

あるいはその逆で、自分にどんな優秀なスキルや人格が備わっていたって、彼女が振り向いてくれる保証はどこにもない。

こんなとき、人は気づくのだ。たとえ自分のすべてを投げ出して、それを引き換えにしても絶対に手に入らないものがあることを。

それは恋に限らず、仕事でもなんでも、人生のあらゆる場面で起こり得る。自分の才能や努力ではどうしようもない状態。そんなとき人は願う、魔法がかかることを、奇跡が起きることを。

そしてある意味で神様が意地悪なのは、時々、その魔法を本当にかけてしまうことだ。小さな小さな奇跡は何十回か、何百回かに一度、かなってしまう。それは自分の才能や努力にかかわらず、まるで最初からシナリオにあったかのように。

人はその瞬間から幸せの絶頂になり、自分ほど幸福なものはいないと思う。ただ残念なことに人はそれに慣れ、やがて最初にどれだけ魔法を、奇跡を切望したかさえも忘れてしまう。そしてつい、うっかり何かのはずみで言ってしまうのだ。かかっていた魔法を解いてしまう言葉を。

物語の後半、トニー滝谷は彼女に「服を買い過ぎじゃないのか?」と言ってしまう。彼が彼女を望んだとき、神様との暗黙の了解で取り引きされた契約は、”風のように服を着こなす彼女が自由に服を買い続けること”だったのだ。(個人的感想)彼女が手に入るなら、その時の彼にとっては”そんなことくらい”だったはずなのに。

その因果で、彼女は交通事故で亡くなってしまう。もしかしたらある運命論者はこういうかも知れない。「そんなセリフを言ったか、言わなかったかは関係ないのだよ。仮に彼がそれを言わなくても、彼女は結局、亡くなる運命にあったのだ」と。

そうかも知れない。でも彼女の結果は同じであっても、それを”言ってしまった”残された者の未来は大きく違う、背負う十字架の重さが違うのだ。



僕たちのまわりには、こんな風に小さな魔法がかかってできたものが少なからずあるはずだ。それは恋人や友達などの人間関係であったり、職場や帰るべき家などの場所であったり。

一朝一夕に組み上げることのできないそれは、たった一言の魔法を解く言葉、もしくは”行為”で一瞬にしてなくしてしまう。

どうすればいいかを口にするのは簡単だ。だだし、それを実行するのがとても難しい。これまでに僕は、この”魔法を解く言葉”を知りながら、もしくは知らず知らずに、一体幾つ唱えてきたのだろうか。そんなことをこの映画を観るたびに考えてしまう。







2016年1月17日日曜日

お知らせ

★2016 1月17日(日曜日)から19日(火曜日)まで法事のため、臨時従業させて頂きます。ご迷惑をおかけいたしますが、御了承下さいませ。

2016年1月14日木曜日

正月あけは暇すぎる、ましてや寒い夜ならなおさらだ。

去年の秋からとある事情により、村上春樹作品(エッセイ、ドキュメンタリーを除く)の完全読破計画を実行中で、あと3作品を残すのみとなりました。

ただ、ここにきて、なんとなくゴールして終わってしまうのが惜しい気持ちと、ちょっと一旦一息いれようかということで、ミステリーを読んだのです。古典的名作なので、知っている人も多いだろうハリイ ケメルマンの「9マイルは遠すぎる」。

これは以前に読んだことがあって、それがハードカバーだったのかは忘れてしまったのだけど、本屋で偶然に文庫本を見つけたので思わず買ってしまいました。



簡単に説明すると、これはミステリーの短編集で、表題の「9マイルは遠すぎる」はハリイ ケメルマンの処女作。ページ数はなんとたったの18ページしかありません。ところがこの短い話は、ミステリー史上トップクラスのプロットだと言われているのです。

さわりだけいうと、こんな感じ。

群検事の”私”が語り手でシャーロックホームズでいえば”ワトソンくん”。友人の英文学教授、通称ニッキーが役柄的にはいわゆる”安楽椅子の探偵”でホームズ役。

彼らはチェス仲間で、ある日、田舎のレストランで食事をしています。そこでの話題は、”ある短い文章から、色々な推論を仮定していくことが可能だ”ということ。この話題は食事が終わっても続いていきます。レジでチェックを済ませているときも。

「では試しに単語10から15個程度の文章を何かいってみてくれ、その文章から僕がいくつかの推論をお目にかけよう」

と,ニッキーが”私”にいいます。

レストランを出て帰る道すがら、”私”は

「では、9マイルもの道を歩くのは容易ではない。ましてや雨の中となるとなおさらだ”ではどうか?」

と,いいます。

ニッキーはたったこれだけの文章(実際は会話)から、殺人事件が起こったことを推理し、しかも犯人が今何処にいるかさえ当ててしまうのです。

なかなか面白そうなプロットでしょう?

ただ僕は、この話は以前に読んでいたので新鮮ではなかったし、むしろ他の短編(この二人が出てくる一連のシリーズ)を読み終えて、つまり一冊を読み終えて、まったく違うところに興味をもったのです。

この短編集には序章があって、作者がいかに長い年月をかけて、「9マイル…」を完成させたかと、ミステリーの王道は短編であり、そのプロットの斬新さだというような事が書かれているのです。
つまり彼、ハリイ ケメルマンは長編のミステリーは読み手をわざと違う結論に導く為に敢えて余計な情報を織り込み、その結果、作品をつまらなくする。短編ミステリーこそが謎解きを純粋に楽しめるツールなのだといっているのです。

さて、この一冊はニッキーシリーズとして作品発表した時系列の順に短編が進んでいきます。つまり”9マイル”がトップにあり、その後に7作の短編が続くのですね。

僕が興味深かったのは、プロットの面白さでは間違いなく”9マイル”が群を抜いて素晴らしい。なのに読後感としての面白さは後の作品になる程、より面白く感じてくる点。

なぜだろう?これはハリイ ケメルマンの”プロット命説”に矛盾してしまう。

もしこの感想が僕個人の選り好みによるものなら仕方がないのだけれど、そうでないなら幾つかの原因が考えられます。

「9マイル…」は処女作なので、順を追って作者の文章力があがった。

同じような理由で、翻訳者がこの世界観を体得して、後になる程、テンポよく訳され読みやすくなった。

この2つも”アリ”だとは思うのですが、おそらくいちばん納得いくのは、読み手である僕自身がこの世界観に慣れ親しんで、キャラクターに愛着を持ち得たからではないでしょうか。

後になるほどに、行間に書かれてはいない彼ら登場人物の息遣いが聞こえ、推理には関係のない無意味な動作が見えるようになってくるのです。

そういう意味において、序章のハリイ ケメルマンの見解、短編&プロットこそミステリーの王道説は、否定はしないまでも、あまりに短いとせっかくのプロットがもったいない気がしてきます。もし彼が晩年、「9マイル…」をセルフ リメイクしたらもっと面白くなったのではないかという気もするのですが、こんなことをいうとファンに叱られるかもしれませんね。


さて、今夜からは村上春樹に戻ります。

次はアフターダークです。

2016年1月13日水曜日

象徴としてのサンタマリア

「この店のお勧めはなんですか?」と訊かれると困ってしまいます。

お勧めじゃないものは仕入れていませんし、こちらがお客様の嗜好を把握していないのに、まったくタイプの違う何十種類のお酒の中から選ぶのは不可能だからです。

せめて「バーボンの中でお勧めは?」とか、「デザート酒でいいのある?」という風に訊いて頂けると助かるのですが、まあ、なかなか難しいものがありますよね。

ところで、”お勧めの酒は?”という問いかけには答えに窮するのですが、”この店を象徴する酒は?”という質問があれば(まずそんな質問はないでしょうが)、それには即答することが出来ます。
それは沖縄県、伊江島で造られているラム、”サンタマリア”です。



このラムとの出会いは、沖縄に旅行に行った帰りの空港のショップでした。友人や常連のお客様への土産にしようと思ったのです。

京都に着いてから自分の店で試飲して驚きました。そしてその日からbar月読のメインラムになり、とくにダイキリなどのホワイトラムを使うカクテルには、今ではなくてはならないものとなっています。

”象徴”という意味において、それはたんに美味しかったからだけという訳ではありません。
このラムに出会ったとき、それは有名なものではなかったし、ブランドものでもなかったし、究極に完成されたものではありませんでした。おそらく京都で殆どの人が知らないであろう、国産の、それも大手企業ではない小さな蒸留所のラムを使ってメインのカクテルを作るということは、barにとってかなりのリスクを冒すということです。

ブランド、広告戦力なしで、自分の信じる感性と味覚だけで、お客様に納得して頂けるかどうか…
沖縄から帰ってきて、店で初めてこのサンタマリアでダイキリを作って飲んだとき、それまでに感じたことのない豊潤な大地の匂いがしました。遥か昔、ジェニングス・コックスがキューバのダイキリ鉱山で作って喉を潤したカクテルも、もしかしたら同じ香りがしたのではないかと想像できるような。

僕はかれこれ30年ほどbarというものに携わってきたけれど、そんな風にして何の予備知識もないお酒を自分の店の”お勧め”にしたのは初めてです。つまりそのポリシーとか”在り方”について、が、この店の”象徴”な訳です。そしてこれからもそういったものを探していきたいと思っています。
さて去年の年末、とても嬉しいことがありました。

よく、年末に”今年の10大ニュース”とか言い合うでしょう? 他のジャンルは色々と迷うことが多かったのですが、お酒についてのニュース、出来事はそれがno.1でした。
関東から大阪に出張していたお客様、わざわざブログを読んで京都まで月読に足を運んで頂きました。

数杯飲んだあと、バックバーに並んでいる酒の列を見て、「ちょっとその酒を見せて下さい‼︎」とそのお客様。

それは数量限定で発売されたサンタマリアの樽出し”T1”。

そのお客様の話によると、以前、アメリカのシアトルで(出張で)ラム専門のbarに入ったそうです。そこは在庫総数で全米no.2の300種という本数を持っていて、そこのマスターが、彼が日本人だと知るとスマホの写真を見せながら、「君はこのラムを知っているか? 私が日本に行って飲んだラムの中でいちばん美味かったラムだ!」といったらしい。

彼は知らなかったし、飲んでみたかったので注文すると、「私も是非とももう一度、飲んでみたかったので、帰国後すぐにネットを調べてみたが、既にソールドアウトだった…オーマイガー」というような返答だったらしいです。

そして「君が日本に帰ったら探してみるといい、ラムが好きなら是非とも飲んでみるべきだよ」と。
サンタマリアが遥かアメリカで、それも全米トップクラスのラム専門barで高い評価をされているのがとても嬉しかったので、このニュースが2015年の”酒に関する10大ニュース”のトップです。

生産関係者ではないのですけどね。w



2015年12月29日火曜日

年末年始のご案内

12月28日(月曜日)を持ちまして、2015年度の営業を終了いたしました。

2016年は元日より通常通り(火曜定休)営業いたします。

ご了承の程、宜しくお願いいたします。


良いお年をお迎えください。

                  店主 平岩

2015年12月17日木曜日

それでも地球はまわっている

雲ひとつないよく晴れた12月の夕方、僕はサンマを焼いた。

サンマを魚焼きグリルに入れてタイマーをセットする。焼き上がり時間は4分後だ。サンマが焼き上がるまでの4分間の間、僕は魚焼きグリルの前に立ったまま、福山雅治について考えていた。

2、3日前に録画しておいた映画を観たのがそもそものきっかけだ。

ガリレオという東野圭吾原作のミステリーがあって、それを福山雅治がTVシリーズで主演して人気がある。(TVは基本的に競馬中継しか見ないのだが、再放送で昼間に何度か観たことがある)
福山雅治が演じる天才物理学者の湯川(ガリレオ)が、警察に協力して完全犯罪のトリックを究明するという物語で1話完結。

で、人気があるので過去2回、映画化された。僕が最近観た録画は2回目のやつだ。



内容は、湯川が海洋資源かなんかの開発についての説明会に呼ばれていて、地方の寂れた海辺の旅館(民宿?)に宿泊中に殺人事件がおこるというものだ。

今回は謎解きよりも、その旅館に夏休みを利用して遊びに来ている”旅館を営む家族”の親戚の少年とガリレオとの心の交流を中心に物語は進んでいく。

ただ、その映画自体は殆ど関係ない。あるシーンが問題だった。(シナリオ、セリフ等が正確でないかもしれないが、概ね以下の感じで違ってないはず)

旅館での朝、福山雅治はロビーで新聞を読んでいる。そこに旅館の親戚の少年が彼に纏わりついて話しかける。(福山雅治演じる湯川は子供がキライな設定だ、”論理的でないから”という理由で)
しつこく話しかける少年に向かって福山雅治はこう言う。

「僕はいま何をしている?」

…新聞を読んでる、と少年は答える。

「そうだ、わかっているなら邪魔しないでくれ!」と言い放つ。

これだ。

これなんだ。

いつも”僕が”新聞を読んでいるときにこれを言いたいのだ。

…でも言えない。

小説読んでるときも、漫画読んでるときも、DVD観てるときも、競馬のメインレースで馬が走ってるときもコレを言いたい。

「僕はいま何をしている?」

bar月読の店舗スペースで月1で映画の会をやっている。そこで以前、『素晴らしき哉、人生』という名作を観たことがある。長い映画だ。3時間弱くらいだったか…

主人公の辛いエピソードが延々と続き、最後の10分くらいでドラマティックな出来事が起こり、物語は大団円を迎えるのだが、その残り10分に差し掛かったときに彼女は僕に向かって「水をくれ」と言う。信じられるか⁈ なぜ、あと10分が待てないのだ? ここはサハラ砂漠の真ん中じゃないんだ。

最後の10分をちゃんと観られない”素晴らしき哉、人生”なんて、変身しないで怪獣がやっつけられるウルトラマンとか、印籠を失くした黄門様と同じではないか?

「僕はいま何をしている?」

魚焼きグリルはもしかしたら故障しているのかもしれない。煙が少し漏れているのではないか? プラターズの歌声が聞こえてくる。そして涙が溢れそうになる。

福山雅治、君はエライなあ。

言いたいことがちゃんと言えて。

でも君は結婚した。今度はドラマじゃない、現実だ。

「僕はいま何をしている?」

言えるか?

毎朝、吹石一恵にそれをちゃんと言えるか?

「そうだ、わかっているなら邪魔しないでくれ!」

もし言えたら僕は君のファンクラブに入ってもいい。

もし言えなかったら、いや、たぶん言えないだろう。現実とドラマは違うのだ。現実では、なにかをひとつ得たなら、違うなにかをひとつ手放さなければならない。その時は一緒にカラオケにでもいって『家族になろうよ』でも歌おうじゃないか。

「僕はいま何をしている?」

…そう、僕はいまサンマを焼いているのだ。

2015年11月22日日曜日

お知らせ

2015 11/23~11/25(月曜日~水曜日)は臨時休業させて頂きます。ご迷惑をおかけ致しますがご了承の程、宜しくお願いいたします。