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2017年1月10日火曜日

Yな人生

原チャリに乗っての通勤途中、信号待ちしながら目の前に止まっている車のテールマークを眺めていて、ふっと思う。

初めて英語を習うとき、アルファベットの歌を覚える。

♫ABCDEFGー、
♩HIJKLMNー、
🎶OPQRSTUー、
♪VW&XYZ.
…っやつ。

このいちばん最後の節、”VWXYZ”。
これが問題だ。

例えば車。(そんなに詳しくないけど)
フェアレディZとかセリカXX(ダブルエックス)とか。
あと、VはVサインとか、ビクトリー。それからWはウインに、古いところではWライダーとかもあるぞ。(知らないだろうな…)
ついでにいうΖガンダムとかもある。

えーっと、結局、何がいいたいのかというと、まわりの文字はみんなカッコいい象徴とか代名詞的に使われるのに、何故だか”Y”だけがイケてない。なんでだろ?
五つの文字仲間のうち、四つまでもがカッコいい象徴に使われるのに、Yだけが取り残されている。黄レンジャーみたいなものか? イエローはYだし…

車の名前みたいに、試しにカクテルにつけてみた。
Vマティーニ
Wマティーニ
マティーニXX(ダブルエックス)
マティーニZ
Zマティーニ(ゼータマティーニ)

では、Yマティーニもしくは、マティーニY。

…ダメだ。やはりどうにも宜しくない。

そんなことを信号待ちの数十秒の間に考えながら、再び原チャリで走り出す。そしてまた走りながら考える。

そういえは、今までの人生のなかで、自分は”Y”っぽいなあーと考えたことも多々あった。
まわりのみんながカッコ良く思えたり、頑張ってるなあ、と思うのに、いったい自分は何やってんだろ?…とか。

学生の頃から僕は、クラスのなかでも割とモテるタイプの友人と行動をともにすることが多かった。そのおかげで、卒業後、偶然おなじクラスや学年の女子に会っても、「ああ、(カッコいい)○○君といつも一緒にいた人ね」という、悲しい思い出されかたをする。

ああ、なんというYな人生だろう。

今はただひたすら待っている。
トヨタでもホンダでもいいから、カッコいい車の名前の前後に”Y”という象徴を付けてくれることを。


アルファベットの名前のついたカクテルをひとつ。
カクテル XYZ


2016年10月20日木曜日

あなたの幸せ、おいくら万円?


この店(bar月読)はだいたいにおいて暇なことが多いので、お客様と1対1になることは珍しいことではなく、”困ったオーダー”というのは、だいたいそんなときによく受ける。

男性客の場合、オーダーはまずそう難しいものにはならない。あってもマニアックなものがほとんどで、女性客によくある”抽象的オーダー”はまずない。

ちなみにこれまであった”困ったオーダーNo.1”は、

「私、アルコール飲めないので、ソフトドリンクで。ジュースみたいに甘くなくて、炭酸がはいってなくて、ウーロン茶でないもの。あ、牛乳もキライです」

が、そうだ。

…うちはコーヒーも紅茶もおいていないので、どう考えても水しかないよな…と思いつつ、結局たまたまあった台湾のお茶のティーパックを使ったんだけど、あれ何茶だったんだろ?

あと、よくあるのは、

「私のイメージでカクテルをつくって下さい」

と、いうやつ。

意外に思われるかもしれないけれど、このオーダーはわりと対処しやすい。もともと本人も遊び心で言ってるだけなので、こちらも多少のジョークを交えるか、あとは相手が女性なら鉄板の方程式があるので大丈夫。(次に使えなくなるので、ここでネタバレはしないけどね)



さて、もっとも気を使う、それでいて割とよくある”困ったオーダー”はこういうやつだ。

カウンターの椅子に座るや否や、こちらがご注文を伺うと、

「マスターは今、幸せですか?」

は…?(マスターハシアワセデスカ、そんなカクテルあったっけ?と多少あせる)

ま、まあ、人からはどう見えてるか分かりませんが、幸せだとは思いますよ…たぶん。

「いいですねえ。じゃあ、私も幸せになるカクテル下さい」

嘘みたいな話だけど、本当にこういうパターンは何度もある。

『幸せになるカクテル』

”私のイメージカクテル”と違って、これはどこか潜在的に”本気度”が少しばかり混ざってるようでやっかいだ。つまり”遊び”で返せないので、真面目に対応するしかない。(知人なら激辛カクテルでもつくって、「シアワセはそんな甘いもんじゃねー!」と対応するのだけど)

さて…。

えーっと、あなたの考える幸せの価値は金銭に換算して幾らくらいですか?

「えー、そんなのお金で表せませんよ」

そうですよね。もし値をつけても100万とか1000万とかじゃ全然足りませんよね?

「そうですね…たぶん」

お客様と店、商品のやり取りは等価交換が原則ですから、仮にもし僕が魔法でも使えて”幸せになるカクテル”を本当に作れるとしたら、それだけの代金を頂きますけど、いいですか?w

「それは無理ですねw。 …でもよく”幸運を招く壺”とか、”幸運を呼ぶペンダント”とか売ってるじゃないですか? 幸運になるカクテルはない?」

ああ、そういうのよくありますよね。たぶんそれらを買ったら、その値段の分だけは幸せになれるかもしれませんね、プラシーボ効果で。わかりますプラシーボ?

風邪薬と思い込んでビタミン剤を飲んだら、治ったとかいう、あれです。つまり思い込が実際に作用する、というものですけど。

「じゃあ、世の中にある”幸せになる何か”みたいなのは全部偽物なんですか?」
僕はお化けも妖怪も幽霊も信じてるし、宇宙人もUFOも、ツチノコだって信じてますから、”そういうもの”がこの世の中にある、というのも信じていますよ。

「じゃあ、あるけど、この店にはないのですね?w」

まだ見たこともないですからね。

見つけたらぜひ仕入れたいですけどねえ。

ただ…

「ただ?」

かりにそんなものがあったとしても、それを本当に持ってたり、造ったりできる人は決してそれに値段をつけて売ったりはしませんよ。

「どうして? 等価交換じゃないから?」

それもあるけど、”人生とか運命みたいなものを変えてしまう、責任の重さとか怖さというものを、そういう人はよく知っているからじゃないでしょうか?

それにもし効き目が感じられなかったら怨みを抱く人も中にはいるでしょう? 買値以上の期待値をもって。

そもそもよく考えて下さい。

10万円で幸せになる壺を売ってる人も、1万円で幸せになるペンダントを売ってる人も、あなたがその人を見て、”幸せそうだ”と思えますか?

「うーん、あまり思えないかも…」

幸せじゃない人が”幸せグッズ”を売るって、矛盾しているでしょ?

いいですか、もし本当に”幸せになるモノ”があるのなら、それは売るのじゃなくて、”差し上げる”とか”譲る”ものなんですよ。

そうしてはじめて等価交換になるし、そのモノの効果が発揮されるんだと思いますよ。

「只であげたら、売るよりもっと差がひらいて、それまで以上に等価交換じゃなくなるでしょう?」

いいえ、違います。もしあなたが本当に"幸せになるグッズ”を持っていたとして、それをあなたが手放してでも”あげたい”と思う人は、きっとあなたにとって、とても大切な人でしょう?

”その人が幸せになればあなたが嬉しい”という気持ちと、その人が”(自分が)幸せになれて嬉しい”という気持ちとが限りなく等価交換になるんですよ。

さあ、そろそろご注文を伺いましょうか…

「…お金で幸せは買えないってことですか?」



お金で買える幸せもあると思いますよ。”良い、悪い”でなくて、物欲が満たされると幸福感があるでしょう。もちろん僕にもあります。でも、”幸せになるグッズ”が本当にあるなら、それはお金で買える類のものではない、ということですね。

「お金で買える幸せと、そうでない幸せはどう違うのですか?」



地球一周が何kmあるか知ってます?

「…わかりません。1万kmくらいですか?」

約4万kmらしいですよ。

「長いんですね…」

つまり世界でいちばん遠い場所は4万km先にあります。あなたにとっても、北極のエスキモーにとっても、上野の西郷さんにとっても、それはみんな同じ距離です。

でも地球一周するんだから、その場所はあなたの背中でもあるんですよ。

つまり世界でいちばん遠い場所と近い場所は同じなんです。メーテルリンクの青い鳥みたいな話になりますけど…

「お金で幸せを買おうとすると、幸運は4万km先に遠ざかる?」

そう考えても構いませんが、僕の言いたいのは少し違います。

”物質的な幸せを追い求める”ということは、”4万km先の場所”という具体的な数字…つまりリアルな目標が出来るということです。

だからといって簡単にクリアできる目標じゃないでしょ?世界一周なんて。

「確かに。私なら聞いただけで諦めますね」

そういう人も多いでしょうし、トライしても途中で脱落する人もいっぱいいるでしょうね。前途多難なイバラの道です。

「でも確かに数字なら実感しやすいですよね。私の幸せまであと3万5千km!…やっぱり遠いなあ。w」

逆にお金で買えない、もしくは換算できない幸せというのは、いちばん近い場所の背中にある。そもそも気がつきにくいし、そこにあると分かっても見えないし、さわれない。でも知ってさえいれば常にあなたと共に”在る”。

いちばん近い場所の幸せは手にふれることはできないけど、いちばん遠い場所の幸せも、そこに向かって歩けば歩くほど途中で気がつくんですよ…結局、進んだぶんだけ背中も移動するから、そこには永遠に届かないんだって。

「なんだ、結局、お金で買える幸せはよくないって話になりますよね」

そうではありませんよ。さっきも言ったように、どちらかが”良い、悪い”の話ではないんです。

今の世の中で、”概念(背中)の幸せ”だけで満足できる人はそうはいないでしょうし、それこそ出家でもしないとね。

それより、いちばん遠い場所と近い場所を把握しつつ、バランス感覚を養って、自分はいったい何を求めていて、それをどこで帳尻合わせするかが大事なんじゃないですか?

「じゃあ、私はどうしたらいいと思います?」

…まずドリンクのオーダーをされては如何でしょうか?w

「あ、そうですね、すっかり忘れてました。…じゃあ、私のイメージで何かカクテルをつくって下さい」

…うっ、二段攻撃できましたか⁈

「え? なんですか?」

いえ、こちらの話ですよ。

アルコール、強くても大丈夫ですか?

「はい。たぶん・・・」



ではカクテルはアラウンド・ザ・ワールド(世界一周)にしましょうか。




2016年9月19日月曜日

臨時休業

申し訳ございませんが、9月19日(月曜日)は、友人の結婚式出席のため、臨時休業させていただきます。


2016年7月16日土曜日

ロングバージョン

「ねえ、知ってる? タンカレーの瓶はロンドンの消火栓の形なんだって!」

手に持ったジンライムのグラスを眺めながら、気を取り直したように彼女が再び話しはじめた。

「…ああ、そうだね。けっこう有名な話だよ、それ」

僕は素っ気なく答え、そしていつもと同じように少しだけそれを後悔する。

僕の目の前にあるグラスは、もうほとんど飲み干されていて、彼女の手の中には氷が半分溶けて水割りになったジンライムが、カラカラと何かの死骸のような音をたてている。

「…でもさ、消火栓を真似たなら、どうしてタンカレーの瓶は緑色なの? どうせならちゃんと赤にすればよかったんじゃない?」

彼女はまるでタンカレージンの担当責任者が僕であるかのように、僕の目をまっすぐに見据えながらそう問い詰めてきた。もしこれがチェスのゲームだったら、そのあとに「チェックメイト」が聞こえたはずだ。

「それはね、酔っぱらいが間違って消火栓の中身を飲んでしまわないためなんだよ、きっと」

僕は彼女の目を見ずにそう答えた。



  シングルプレイのつもりが、いつか気づけばロングバージョン
             似たもの同士のボサノヴァ、ちょっとヘヴィめなラヴソング




タンカレーの”ロングバージョン”、『タンカレーラングプール』。そのままでライムと生姜の風味が特徴。瓶もノーマルのタンカレーより少しだけ大き目です。







暁を遊ぶ猫

「おもしろうてやがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」  芭蕉

この俳句の意味は、楽しく華やかな鵜飼が終わったあと、たまらなく悲しい気持ちになるという”祭りの後の寂しさ”を詠んだもので、とくに難しいものではない。

でも僕はこの句の意味を長い間、誤解していて、「鵜飼を最初に見物したときは楽しい気持ちになるが、やがて慣れてくると鵜が人間に利用されて鮎を採っても吞みこめず、吐き出さなくてはならないことが可哀想に思えてくる」という風に理解していた。


この夏の季語のはいった句を、蒸し暑い梅雨の最中に思い出したのには訳がある。

寝息についてときどき思う。

自分の寝息を聞くことはできない。だからといって、無条件で誰かの寝息を聞くこともできない。道を歩いている知らない女の子に声をかけて、「あなたの寝息を聞かせてください」なんて言おうものなら悲しい結末が待っているのでやめた方がいい。


寝息を聞く、という行為。

それは自分に気を許してくれる、近しい人がそこにいる、という状況に他ならないのだ。


暗い部屋の中で感じる微かな息遣いと小さな鼓動。それはその人の存在の証であり、ある種の安心感だ。でもそれと同時にいつか必ず闇の中に溶け込んで消えてしまう種類の音なのだと心のどこかで確信している。そして現実に静寂だけが自分の周りに残るのだろう。(もちろん自分の方が早くそうなってしまうことだって往々にしてあるのだが)

そう思うと真っ暗な部屋の中で聞こえてくる微かな寝息が、いまにも止まってしまいそうで儚く思えて、生きていてくれることが”実感として”(つまり概念ではなく)奇跡のように思える数少ない時間なのだと思う。


ある日の早朝。

うちの寝室のガラス窓の向こうにはベランダがあり、たまにそこでノラ猫の黒ちゃんとトミーが「フーーッ!」と唸り声をあげながら縄張り争いをくりひろげていることがある。

まったく迷惑な話で、喧嘩してダミ声あげるなら昼間にやってくれよ、と思う。世間は朝でも、こっちは深夜営業でこの時間はまだ真夜中なんだから…とムニャムニャいいながら目を覚ます。

少しずつ頭が冴えてくると、猫の唸り声はベランダで繰り広げられている喧嘩ではなく、横の布団で気持ち良さげに眠っている”近しい人”から発生しているものだと分かった。(黒ちゃん、トミー、疑って悪かった。今度、メザシあげるからね)

奇跡も大き過ぎると、平和な日常を飲み込んでしまうのだ。

「…おもしろうてやがてかなしき寝息かな」



ビトウィン・ザ・シーツというカクテルがある。本来は男女間で「さあ、ベッドに行きましょ」という艶っぽい意味のカクテルなんだけど、まあ日本人でこのカクテルを使いこなせる人はいないだろうな。(これまで10年以上、オーダーを伺ったこともないしね)

実際的には寝息を聞きながら、あるいはそれを思い出しながら、奇跡に感謝して飲むくらいがちょうどいいのかも知れない。出来ることなら、小さな奇跡を。





2016年7月5日火曜日

それは今年はじめてセミの声を聞いた午後

暑さで倒れそうな午後、それでも夕食の買い物に出かけ、這々の体で家に帰る道すがら。

小学生の一年生くらいかな? 二人の女の子が自分の顔の倍くらいあるプリントを広げながら、”花は咲く”を大きな声で合唱しながらこちらに向かって歩いてきて、やがてすれ違った。

その歌声はとても楽しそうだった。

♪花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
私は何を残しただろう♪

…っていうあの曲。

今の音楽の教科書に載っているのかな?

そういえば僕が中学生のとき、フォークソングが好きな先生が音楽の授業で教科書を使わずに、自分の好きな曲を藁半紙(僕の育った地方ではザラバン紙と言ってた)に刷ってきてよく唄わせていた。”なごり雪”、”旅立ち”とか、”あの素晴らしい愛をもう一度”とか…

音楽の授業でいちばん覚えているエピソードといえば小学6年生(5年生?)のときのことだ。毎年恒例の校内合唱コンクールで、僕のクラスにだけ、あるトラブルが持ち上がった。

どこもそうなのかも知れないけど、僕の小学校では音楽の授業だけは担任の先生が教える他の教科と違って”音楽の先生”というのがいた。

音楽の授業は普通、気楽に楽しく過ごせるもののはずだ。ところがこの先生、年配のかなりヒステリックな女性でとにかく怖かった。授業の間はみんなピリピリした緊張感を強いられ、どちらかというとかなり苦痛な時間だったのだ。

あのとき、いったい何が原因だったのかもう忘れてしまったけど、僕等のクラス全員がこの先生の機嫌を損ねてしまって、合唱コンクールの課題曲、自由曲ともに「私はもうあなた達には教えません、勝手にやりなさい‼︎」と放棄されてしまった。

合唱コンクールの練習は通常、音楽の授業時間に行なわれるはずが、この先生はそれからずっと通常の教科書に沿った授業を行ったのだ。つまり僕等のクラスには合唱コンクールの練習する時間を与えられなかったわけだ。

普通、そんなことしないでしょ?
小学生相手に本気だしてさ。

まあ、僕等もすぐに謝りに行けばよかったのかも知れないけど、そうしなかったしお互い様かも知れないけど。(でもみんな心底、あの先生が怖かったんだと思う)

で、それからどうなったかというと…

面白いもので、こんな状況のときほどクラスは一致団結する。この年頃は男女がわりと反発しあってなかなか相容れないものだけど、このときは違った。

昼休みや放課後の短い時間に、みんな集まって合唱コンクールの練習をしたんだ。教室の片隅でピアノの伴奏なしで、男女それぞれのコーラスパートを決めたりして…

で、テレビドラマだと、これで優勝したりするのだろうけど、現実はそう甘くはないからね、結果はいちばんにはなれなかったけど、印象に残るいい思い出にはなった。何より担任の先生がすごく喜んでくれたしね。

あのときの課題曲はもう覚えてない。自由曲はこのトラブルが持ち上がってから、
「さてどうしよう? 」
「じゃあ自分たちだけでなんとかしよう!」
となったとき、担任の先生が提案した曲だった。たしか割と強引に決められたようにも思う。

…自分が好きな歌だったから、唄わせたかったんだろうな、”戦争を知らない子供たち”

♪おとなになって歩き始める
平和の歌をくちずさみながら
僕らの名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ♪

あれから30年以上が過ぎ、僕等はいつの間にか大人になって、たしかに歩き始めはした。

でも平和の歌を口ずさんできただろうか?
考え、選んで、行動し、責任をもってきただろうか?

あのときのクラスのように、またひとつにまとまれたらいいのにな、と思う。

すれ違った女の子たちのうち一人は、どうやら家に帰ったらしく、僕が振り向いたときはもうすでに一人の女の子だけだった。

その子はたった一人になっても、大きな声で最後まで歌いきり、それからすぐに元気よく駆けだしていった。



私は何を残しただろう。

あなたたちの未来に花が咲きますように。








2016年7月1日金曜日

バックバーの風景

バーテンダーが初めてのバーに行くと、ほとんどの場合その店のバーテンダーに”同業者”であることがバレてしまう。

…バックバーという言葉を知っているだろうか? バーでカウンターに座るとそこから見える向い側の壁(の棚)にウイスキーなど、多種多様な酒がこれでもか!ってくらいに並んでいる光景、あれがバックバー。

同業者の場合、ドアを開けて入ってくると、まず店全体を眺める。でもそれは一瞬だけで、そのあと視線はずっとバックバーに注視されたままになる。カウンターに座るために椅子を手前に引くときも、腰掛けるときも、とりあえず何かをオーダーするときも、ずっとバックバーを見ている。仮に見ていないときがあったにせよ、意識は常にバックバーだ。この時点でだいたい80%くらいは”ご同業”と判別されてしまう。

ではそこになにを見てるのか?

「あの酒がある!」

「あんな酒も置いてある!」

「おおっ、あんな高級酒が…」

「むうっ、あの酒は見たことないぞ‼︎」

…とか、まあ、そんな感じだろうか。

でもいちはん観るのは全体を通したその人(店)のセンスだと思う。よほど大きな店ならともかく、一般的にバックバーのスペースは限られていて、置ける酒の本数も決まっている。そこにどういった意思やある種の哲学を踏まえて酒をセレクトしているのか?…ということを、たぶんみんな見てるんだと思う。

このとき、たとえば自分が欲しかったのに、どうしても手に入らなかったボトルがそこに並んでいたとしても、そこに少しばかりの羨望があったとしても、それは悲喜こもごもなとても心地の良い刺激であり、自分自身は時間の流れの外にいて、柔らかな空気の中に包まれているようなとても幸せな時間なのだ。

実は昨日、初めてのバーに行った…わけではなく、京都駅の伊勢丹内にあるギャラリースペース”えき”で行われている安西水丸展に行ってきた。



僕はだいたい美術館に行くとひどく疲れてしまう。優れた作品に向き合うと(概ね絵画のことだけど)、そこから発せられるエネルギーみたいなものに正面から対峙しなければならないので、こちらもかなりのエネルギーを消費する。そしてあたりまえだけど、ことごとく打ち負かされてしまうので、出口を抜けるときはもうクタクタなのだ。

だから心身ともに良好なときにしか美術館には行かないし、ヨメに誘われても断ったり、渋々つきあって怪訝な顔をされたりして、最悪の場合は交戦状態となる。w(たぶんよほど不機嫌そうな疲れた顔をしているのだろう)

ところが昨日の安西水丸展はそうはならなかった。それがイラストレーションだったから…ではないと思う。もちろん作品にそれだけの力がなかったから、でもない。

僕にとっては滅多にないことだけど、出口のところまできて、もう一度引き返して最初から観てまわった。(小さなギャラリーを別にして、こんなことはいつ以来だろう!)

2度目の最終コーナーのあたりでさすがに歩き疲れて、設営されていたベンチに腰掛けながら、「多才な人だなあ…」とか、「なんであの作品をみて泣きそうになったんだろう?とくに好きなものではなかったのに…」とか、ぼんやりと考えていた。そしてもう一度遠回しに作品を眺めたとき気がついたんだ。

「あ、バックバーを眺めているみたいだ」