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2013年12月30日月曜日

キオク ノ ムコウ

年末年始にこんな話もどうかと思うのですが、かの一休禅師も「めでたき言葉を…」のリクエストに『親死 子死 孫死』と書いたエピソードもあるのでまあ、よしとしてください。




―――僕は今年の9月で46歳になった。
身近な人たち。身内も、友達も、たまに会ったときに挨拶する程度の近所のオジサン、オバサン達も、毎年のように亡くなっていく人が多くなてきた。

自分の知ってる人が亡くなるとはどういう事か。ある側面でいうと、”自分のコトを知っている人が減る”ということなのだ。

例えば僕はこれからも人と出会っていくだろう。明日友達が出来るかもしれない。その友達と末永く付き合っていけるかもしれない。でもその友人の中にある僕への記憶は僕が46歳の時からであり、小学生だった頃の僕の記憶を持っている訳ではない。

自分の古い記憶を共有してくれている人は確実に減っていくけれど、決して増えることはありえないい。それはまるで年代物のワインと同じで、そのビンテージが消費され尽くせば、もう誰もそれ以降は知る由もない。

歳をとる孤独というのは、つまり”自分を知る人がいなくなる”ことであり、単に物理的な人との距離感だとか、精神的に繋がっていれば寂しくないだとかいうものではないのだ。



”自分が何者であるか”…を問われて答えるのは難しい。
でもある意味、それは二つの記憶の合成から成り立つのではないかと思う。

自分が”こうありたい”、”こうあるべきだ”、”これが欲しい”などと思い、生きてきた自分自身のキオクがひとつ。自分を知る者の”あいつはこうだ”というキオクがひとつ。
たぶん全く違う要素で創られた二つのキオクが合わさって初めて一人前の記憶が完成される。

自分の知らない自分を他人は知っていて、他人の知らない自分を自分自身が知っている。どちらも正しいキオクなのだ。

自分を知っていてくれる人が亡くなるとは、自分の記憶の断片が欠落することに他ならない。それはつまりとても哀しい。自分がどんなに長生きしても、やがていずれは自分のすべての記憶がキオクに変わってしまう。”歳をとる”とはそういう事なのだ。

ただし、こうも言い換えられる。

「自分は何もできない」「誰にも何もしてあげられない」と嘆く人をよく見かけるが、そんなことは決してない。自分が誰かのことをキオクしている。ただそれだけで、その誰かは自分の記憶がコンプリートされている訳だから、その人の孤独を救っていることになるのだ。

歳を重ねるごとに誰かのキオクをワインセラーに寝かせるように保存していく。記憶を共有する誰かが増えていく、歳をとることはそれだけでも素晴らしい。

…身近な誰かが亡くなる。
自分の記憶の中のあるパーツがキオクに変わる。でも亡くなったその人自身の記憶も自分に残されたキオクだけになるという相互依存形で記憶は存在する。

その時、自分の記憶が断片になったことを悲しむのよりも、相手の残されたキオクをいつかそれを必要とする人に伝えることに何かを見出す方がずっといい。


とはいっても、そんな簡単に割り切れるものではない。時々は「ワタシ ノ コト ヲ オボエテイマスカ?」と問いたくなるし、「アナタ ノ コト ヲ オボエテイマス ヨ」と返事を聞きたくもなる。

星をみる、木霊返しをきく、貝殻に耳をあてるのはきっとそんな時だろう。
…あともうひとつ、酒を飲むときも―――



***



酒場では色々な場面があるにしても、そういった1シーンを月読で過ごしてもらえるようなBarでありたい、またそういった酒を作れるようになりたいなあと、常々思っています。




今年はどんな記憶を重ねてこられましたでしょうか?

来年が素晴らしい記憶で溢れていますように!

Bar月読の今年の営業は本日(12月30日)で終了です。
ありがとうございました。
来年度は3日より通常営業致します。



今年最後の一杯はカクテル・スイートメモリーズです。
良いお年をお迎えください。









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