去年の秋からとある事情により、村上春樹作品(エッセイ、ドキュメンタリーを除く)の完全読破計画を実行中で、あと3作品を残すのみとなりました。
ただ、ここにきて、なんとなくゴールして終わってしまうのが惜しい気持ちと、ちょっと一旦一息いれようかということで、ミステリーを読んだのです。古典的名作なので、知っている人も多いだろうハリイ ケメルマンの「9マイルは遠すぎる」。
これは以前に読んだことがあって、それがハードカバーだったのかは忘れてしまったのだけど、本屋で偶然に文庫本を見つけたので思わず買ってしまいました。
簡単に説明すると、これはミステリーの短編集で、表題の「9マイルは遠すぎる」はハリイ ケメルマンの処女作。ページ数はなんとたったの18ページしかありません。ところがこの短い話は、ミステリー史上トップクラスのプロットだと言われているのです。
さわりだけいうと、こんな感じ。
群検事の”私”が語り手でシャーロックホームズでいえば”ワトソンくん”。友人の英文学教授、通称ニッキーが役柄的にはいわゆる”安楽椅子の探偵”でホームズ役。
彼らはチェス仲間で、ある日、田舎のレストランで食事をしています。そこでの話題は、”ある短い文章から、色々な推論を仮定していくことが可能だ”ということ。この話題は食事が終わっても続いていきます。レジでチェックを済ませているときも。
「では試しに単語10から15個程度の文章を何かいってみてくれ、その文章から僕がいくつかの推論をお目にかけよう」
と,ニッキーが”私”にいいます。
レストランを出て帰る道すがら、”私”は
「では、9マイルもの道を歩くのは容易ではない。ましてや雨の中となるとなおさらだ”ではどうか?」
と,いいます。
ニッキーはたったこれだけの文章(実際は会話)から、殺人事件が起こったことを推理し、しかも犯人が今何処にいるかさえ当ててしまうのです。
なかなか面白そうなプロットでしょう?
ただ僕は、この話は以前に読んでいたので新鮮ではなかったし、むしろ他の短編(この二人が出てくる一連のシリーズ)を読み終えて、つまり一冊を読み終えて、まったく違うところに興味をもったのです。
この短編集には序章があって、作者がいかに長い年月をかけて、「9マイル…」を完成させたかと、ミステリーの王道は短編であり、そのプロットの斬新さだというような事が書かれているのです。
つまり彼、ハリイ ケメルマンは長編のミステリーは読み手をわざと違う結論に導く為に敢えて余計な情報を織り込み、その結果、作品をつまらなくする。短編ミステリーこそが謎解きを純粋に楽しめるツールなのだといっているのです。
さて、この一冊はニッキーシリーズとして作品発表した時系列の順に短編が進んでいきます。つまり”9マイル”がトップにあり、その後に7作の短編が続くのですね。
僕が興味深かったのは、プロットの面白さでは間違いなく”9マイル”が群を抜いて素晴らしい。なのに読後感としての面白さは後の作品になる程、より面白く感じてくる点。
なぜだろう?これはハリイ ケメルマンの”プロット命説”に矛盾してしまう。
もしこの感想が僕個人の選り好みによるものなら仕方がないのだけれど、そうでないなら幾つかの原因が考えられます。
「9マイル…」は処女作なので、順を追って作者の文章力があがった。
同じような理由で、翻訳者がこの世界観を体得して、後になる程、テンポよく訳され読みやすくなった。
この2つも”アリ”だとは思うのですが、おそらくいちばん納得いくのは、読み手である僕自身がこの世界観に慣れ親しんで、キャラクターに愛着を持ち得たからではないでしょうか。
後になるほどに、行間に書かれてはいない彼ら登場人物の息遣いが聞こえ、推理には関係のない無意味な動作が見えるようになってくるのです。
そういう意味において、序章のハリイ ケメルマンの見解、短編&プロットこそミステリーの王道説は、否定はしないまでも、あまりに短いとせっかくのプロットがもったいない気がしてきます。もし彼が晩年、「9マイル…」をセルフ リメイクしたらもっと面白くなったのではないかという気もするのですが、こんなことをいうとファンに叱られるかもしれませんね。
さて、今夜からは村上春樹に戻ります。
次はアフターダークです。
SINCE 2004
京都の繁華街から外れた場所。
ジャズレコード、蓄音機、シーメンスのスピーカー、ビリヤード台、昭和歌謡、古書…シングルモルトをはじめとする蒸留酒とスタンダード・カクテル。
外の世界とは少しだけ時間の流れが違う場所。
詳しくはオフィシャルサイトをご覧下さい
2016年1月14日木曜日
2016年1月13日水曜日
象徴としてのサンタマリア
「この店のお勧めはなんですか?」と訊かれると困ってしまいます。
お勧めじゃないものは仕入れていませんし、こちらがお客様の嗜好を把握していないのに、まったくタイプの違う何十種類のお酒の中から選ぶのは不可能だからです。
せめて「バーボンの中でお勧めは?」とか、「デザート酒でいいのある?」という風に訊いて頂けると助かるのですが、まあ、なかなか難しいものがありますよね。
ところで、”お勧めの酒は?”という問いかけには答えに窮するのですが、”この店を象徴する酒は?”という質問があれば(まずそんな質問はないでしょうが)、それには即答することが出来ます。
それは沖縄県、伊江島で造られているラム、”サンタマリア”です。
このラムとの出会いは、沖縄に旅行に行った帰りの空港のショップでした。友人や常連のお客様への土産にしようと思ったのです。
京都に着いてから自分の店で試飲して驚きました。そしてその日からbar月読のメインラムになり、とくにダイキリなどのホワイトラムを使うカクテルには、今ではなくてはならないものとなっています。
”象徴”という意味において、それはたんに美味しかったからだけという訳ではありません。
このラムに出会ったとき、それは有名なものではなかったし、ブランドものでもなかったし、究極に完成されたものではありませんでした。おそらく京都で殆どの人が知らないであろう、国産の、それも大手企業ではない小さな蒸留所のラムを使ってメインのカクテルを作るということは、barにとってかなりのリスクを冒すということです。
ブランド、広告戦力なしで、自分の信じる感性と味覚だけで、お客様に納得して頂けるかどうか…
沖縄から帰ってきて、店で初めてこのサンタマリアでダイキリを作って飲んだとき、それまでに感じたことのない豊潤な大地の匂いがしました。遥か昔、ジェニングス・コックスがキューバのダイキリ鉱山で作って喉を潤したカクテルも、もしかしたら同じ香りがしたのではないかと想像できるような。
僕はかれこれ30年ほどbarというものに携わってきたけれど、そんな風にして何の予備知識もないお酒を自分の店の”お勧め”にしたのは初めてです。つまりそのポリシーとか”在り方”について、が、この店の”象徴”な訳です。そしてこれからもそういったものを探していきたいと思っています。
さて去年の年末、とても嬉しいことがありました。
よく、年末に”今年の10大ニュース”とか言い合うでしょう? 他のジャンルは色々と迷うことが多かったのですが、お酒についてのニュース、出来事はそれがno.1でした。
関東から大阪に出張していたお客様、わざわざブログを読んで京都まで月読に足を運んで頂きました。
数杯飲んだあと、バックバーに並んでいる酒の列を見て、「ちょっとその酒を見せて下さい‼︎」とそのお客様。
それは数量限定で発売されたサンタマリアの樽出し”T1”。
そのお客様の話によると、以前、アメリカのシアトルで(出張で)ラム専門のbarに入ったそうです。そこは在庫総数で全米no.2の300種という本数を持っていて、そこのマスターが、彼が日本人だと知るとスマホの写真を見せながら、「君はこのラムを知っているか? 私が日本に行って飲んだラムの中でいちばん美味かったラムだ!」といったらしい。
彼は知らなかったし、飲んでみたかったので注文すると、「私も是非とももう一度、飲んでみたかったので、帰国後すぐにネットを調べてみたが、既にソールドアウトだった…オーマイガー」というような返答だったらしいです。
そして「君が日本に帰ったら探してみるといい、ラムが好きなら是非とも飲んでみるべきだよ」と。
サンタマリアが遥かアメリカで、それも全米トップクラスのラム専門barで高い評価をされているのがとても嬉しかったので、このニュースが2015年の”酒に関する10大ニュース”のトップです。
生産関係者ではないのですけどね。w
お勧めじゃないものは仕入れていませんし、こちらがお客様の嗜好を把握していないのに、まったくタイプの違う何十種類のお酒の中から選ぶのは不可能だからです。
せめて「バーボンの中でお勧めは?」とか、「デザート酒でいいのある?」という風に訊いて頂けると助かるのですが、まあ、なかなか難しいものがありますよね。
ところで、”お勧めの酒は?”という問いかけには答えに窮するのですが、”この店を象徴する酒は?”という質問があれば(まずそんな質問はないでしょうが)、それには即答することが出来ます。
それは沖縄県、伊江島で造られているラム、”サンタマリア”です。
このラムとの出会いは、沖縄に旅行に行った帰りの空港のショップでした。友人や常連のお客様への土産にしようと思ったのです。
京都に着いてから自分の店で試飲して驚きました。そしてその日からbar月読のメインラムになり、とくにダイキリなどのホワイトラムを使うカクテルには、今ではなくてはならないものとなっています。
”象徴”という意味において、それはたんに美味しかったからだけという訳ではありません。
このラムに出会ったとき、それは有名なものではなかったし、ブランドものでもなかったし、究極に完成されたものではありませんでした。おそらく京都で殆どの人が知らないであろう、国産の、それも大手企業ではない小さな蒸留所のラムを使ってメインのカクテルを作るということは、barにとってかなりのリスクを冒すということです。
ブランド、広告戦力なしで、自分の信じる感性と味覚だけで、お客様に納得して頂けるかどうか…
沖縄から帰ってきて、店で初めてこのサンタマリアでダイキリを作って飲んだとき、それまでに感じたことのない豊潤な大地の匂いがしました。遥か昔、ジェニングス・コックスがキューバのダイキリ鉱山で作って喉を潤したカクテルも、もしかしたら同じ香りがしたのではないかと想像できるような。
僕はかれこれ30年ほどbarというものに携わってきたけれど、そんな風にして何の予備知識もないお酒を自分の店の”お勧め”にしたのは初めてです。つまりそのポリシーとか”在り方”について、が、この店の”象徴”な訳です。そしてこれからもそういったものを探していきたいと思っています。
さて去年の年末、とても嬉しいことがありました。
よく、年末に”今年の10大ニュース”とか言い合うでしょう? 他のジャンルは色々と迷うことが多かったのですが、お酒についてのニュース、出来事はそれがno.1でした。
関東から大阪に出張していたお客様、わざわざブログを読んで京都まで月読に足を運んで頂きました。
数杯飲んだあと、バックバーに並んでいる酒の列を見て、「ちょっとその酒を見せて下さい‼︎」とそのお客様。
それは数量限定で発売されたサンタマリアの樽出し”T1”。
そのお客様の話によると、以前、アメリカのシアトルで(出張で)ラム専門のbarに入ったそうです。そこは在庫総数で全米no.2の300種という本数を持っていて、そこのマスターが、彼が日本人だと知るとスマホの写真を見せながら、「君はこのラムを知っているか? 私が日本に行って飲んだラムの中でいちばん美味かったラムだ!」といったらしい。
彼は知らなかったし、飲んでみたかったので注文すると、「私も是非とももう一度、飲んでみたかったので、帰国後すぐにネットを調べてみたが、既にソールドアウトだった…オーマイガー」というような返答だったらしいです。
そして「君が日本に帰ったら探してみるといい、ラムが好きなら是非とも飲んでみるべきだよ」と。
サンタマリアが遥かアメリカで、それも全米トップクラスのラム専門barで高い評価をされているのがとても嬉しかったので、このニュースが2015年の”酒に関する10大ニュース”のトップです。
生産関係者ではないのですけどね。w
2015年12月29日火曜日
年末年始のご案内
12月28日(月曜日)を持ちまして、2015年度の営業を終了いたしました。
2016年は元日より通常通り(火曜定休)営業いたします。
ご了承の程、宜しくお願いいたします。
良いお年をお迎えください。
店主 平岩
2016年は元日より通常通り(火曜定休)営業いたします。
ご了承の程、宜しくお願いいたします。
良いお年をお迎えください。
店主 平岩
2015年12月17日木曜日
それでも地球はまわっている
雲ひとつないよく晴れた12月の夕方、僕はサンマを焼いた。
サンマを魚焼きグリルに入れてタイマーをセットする。焼き上がり時間は4分後だ。サンマが焼き上がるまでの4分間の間、僕は魚焼きグリルの前に立ったまま、福山雅治について考えていた。
2、3日前に録画しておいた映画を観たのがそもそものきっかけだ。
ガリレオという東野圭吾原作のミステリーがあって、それを福山雅治がTVシリーズで主演して人気がある。(TVは基本的に競馬中継しか見ないのだが、再放送で昼間に何度か観たことがある)
福山雅治が演じる天才物理学者の湯川(ガリレオ)が、警察に協力して完全犯罪のトリックを究明するという物語で1話完結。
で、人気があるので過去2回、映画化された。僕が最近観た録画は2回目のやつだ。
内容は、湯川が海洋資源かなんかの開発についての説明会に呼ばれていて、地方の寂れた海辺の旅館(民宿?)に宿泊中に殺人事件がおこるというものだ。
今回は謎解きよりも、その旅館に夏休みを利用して遊びに来ている”旅館を営む家族”の親戚の少年とガリレオとの心の交流を中心に物語は進んでいく。
ただ、その映画自体は殆ど関係ない。あるシーンが問題だった。(シナリオ、セリフ等が正確でないかもしれないが、概ね以下の感じで違ってないはず)
旅館での朝、福山雅治はロビーで新聞を読んでいる。そこに旅館の親戚の少年が彼に纏わりついて話しかける。(福山雅治演じる湯川は子供がキライな設定だ、”論理的でないから”という理由で)
しつこく話しかける少年に向かって福山雅治はこう言う。
「僕はいま何をしている?」
…新聞を読んでる、と少年は答える。
「そうだ、わかっているなら邪魔しないでくれ!」と言い放つ。
これだ。
これなんだ。
いつも”僕が”新聞を読んでいるときにこれを言いたいのだ。
…でも言えない。
小説読んでるときも、漫画読んでるときも、DVD観てるときも、競馬のメインレースで馬が走ってるときもコレを言いたい。
「僕はいま何をしている?」
bar月読の店舗スペースで月1で映画の会をやっている。そこで以前、『素晴らしき哉、人生』という名作を観たことがある。長い映画だ。3時間弱くらいだったか…
主人公の辛いエピソードが延々と続き、最後の10分くらいでドラマティックな出来事が起こり、物語は大団円を迎えるのだが、その残り10分に差し掛かったときに彼女は僕に向かって「水をくれ」と言う。信じられるか⁈ なぜ、あと10分が待てないのだ? ここはサハラ砂漠の真ん中じゃないんだ。
最後の10分をちゃんと観られない”素晴らしき哉、人生”なんて、変身しないで怪獣がやっつけられるウルトラマンとか、印籠を失くした黄門様と同じではないか?
「僕はいま何をしている?」
魚焼きグリルはもしかしたら故障しているのかもしれない。煙が少し漏れているのではないか? プラターズの歌声が聞こえてくる。そして涙が溢れそうになる。
福山雅治、君はエライなあ。
言いたいことがちゃんと言えて。
でも君は結婚した。今度はドラマじゃない、現実だ。
「僕はいま何をしている?」
言えるか?
毎朝、吹石一恵にそれをちゃんと言えるか?
「そうだ、わかっているなら邪魔しないでくれ!」
もし言えたら僕は君のファンクラブに入ってもいい。
もし言えなかったら、いや、たぶん言えないだろう。現実とドラマは違うのだ。現実では、なにかをひとつ得たなら、違うなにかをひとつ手放さなければならない。その時は一緒にカラオケにでもいって『家族になろうよ』でも歌おうじゃないか。
「僕はいま何をしている?」
…そう、僕はいまサンマを焼いているのだ。
サンマを魚焼きグリルに入れてタイマーをセットする。焼き上がり時間は4分後だ。サンマが焼き上がるまでの4分間の間、僕は魚焼きグリルの前に立ったまま、福山雅治について考えていた。
2、3日前に録画しておいた映画を観たのがそもそものきっかけだ。
ガリレオという東野圭吾原作のミステリーがあって、それを福山雅治がTVシリーズで主演して人気がある。(TVは基本的に競馬中継しか見ないのだが、再放送で昼間に何度か観たことがある)
福山雅治が演じる天才物理学者の湯川(ガリレオ)が、警察に協力して完全犯罪のトリックを究明するという物語で1話完結。
で、人気があるので過去2回、映画化された。僕が最近観た録画は2回目のやつだ。
内容は、湯川が海洋資源かなんかの開発についての説明会に呼ばれていて、地方の寂れた海辺の旅館(民宿?)に宿泊中に殺人事件がおこるというものだ。
今回は謎解きよりも、その旅館に夏休みを利用して遊びに来ている”旅館を営む家族”の親戚の少年とガリレオとの心の交流を中心に物語は進んでいく。
ただ、その映画自体は殆ど関係ない。あるシーンが問題だった。(シナリオ、セリフ等が正確でないかもしれないが、概ね以下の感じで違ってないはず)
旅館での朝、福山雅治はロビーで新聞を読んでいる。そこに旅館の親戚の少年が彼に纏わりついて話しかける。(福山雅治演じる湯川は子供がキライな設定だ、”論理的でないから”という理由で)
しつこく話しかける少年に向かって福山雅治はこう言う。
「僕はいま何をしている?」
…新聞を読んでる、と少年は答える。
「そうだ、わかっているなら邪魔しないでくれ!」と言い放つ。
これだ。
これなんだ。
いつも”僕が”新聞を読んでいるときにこれを言いたいのだ。
…でも言えない。
小説読んでるときも、漫画読んでるときも、DVD観てるときも、競馬のメインレースで馬が走ってるときもコレを言いたい。
「僕はいま何をしている?」
bar月読の店舗スペースで月1で映画の会をやっている。そこで以前、『素晴らしき哉、人生』という名作を観たことがある。長い映画だ。3時間弱くらいだったか…
主人公の辛いエピソードが延々と続き、最後の10分くらいでドラマティックな出来事が起こり、物語は大団円を迎えるのだが、その残り10分に差し掛かったときに彼女は僕に向かって「水をくれ」と言う。信じられるか⁈ なぜ、あと10分が待てないのだ? ここはサハラ砂漠の真ん中じゃないんだ。
最後の10分をちゃんと観られない”素晴らしき哉、人生”なんて、変身しないで怪獣がやっつけられるウルトラマンとか、印籠を失くした黄門様と同じではないか?
「僕はいま何をしている?」
魚焼きグリルはもしかしたら故障しているのかもしれない。煙が少し漏れているのではないか? プラターズの歌声が聞こえてくる。そして涙が溢れそうになる。
福山雅治、君はエライなあ。
言いたいことがちゃんと言えて。
でも君は結婚した。今度はドラマじゃない、現実だ。
「僕はいま何をしている?」
言えるか?
毎朝、吹石一恵にそれをちゃんと言えるか?
「そうだ、わかっているなら邪魔しないでくれ!」
もし言えたら僕は君のファンクラブに入ってもいい。
もし言えなかったら、いや、たぶん言えないだろう。現実とドラマは違うのだ。現実では、なにかをひとつ得たなら、違うなにかをひとつ手放さなければならない。その時は一緒にカラオケにでもいって『家族になろうよ』でも歌おうじゃないか。
「僕はいま何をしている?」
…そう、僕はいまサンマを焼いているのだ。
2015年11月22日日曜日
2015年11月20日金曜日
その先はドーナツ?
その日の午後、僕は家の近くにあるローカルなショッピングモールにいた。相方(嫁さん)が出張で留守なので夕食の食材を買いに来たという理由で。
レジで支払いを済ませたあと、まっすぐ帰らずに同じショッピングモール内にあるミスタードーナツに向かった。安売りのキャンペーンをしているらしく、僕が買い物を済ませる前に通りがかったときから短い列ができていた。
ミスタードーナツは過去に何度も食品衛生管理の問題を起こしているし、酷い例では外部業者の告発を口止料を払ってもみ消し、そのまま件の商品を売り続けたのが発覚し裁判沙汰になったこともある。それなのに今もドーナツは売れ続け、キャンペーン中は行列までできるのだ。僕にはそれが不思議でならない。(そういった例はいくつもあるのだろうが、たまたまその日はミスタードーナツだった。特別に恨みがあるわけではない&今回はそういった事を話したいわけでもないのだけど、ミスタードーナツが好きだと思われるのは心外なので書いた)
そんなネガティヴなイメージをもつミスタードーナツに、何故かその日は行列にならんでみたくなった。映画にせよラーメン屋にせよ、およそ”列にならぶ”という行為が嫌いなはずなのに。とくに理由はない。あえて理由を挙げるなら”今までこういうの、ならんだ事ないよなあ。避けてきたよなあ。…もしならんで買ったりしたら何かが変わるだろうか?”と思ってしまったのだ。こういった”魔がさす”といったことはたまにあって、要するに暇だった。
10分くらいならんでドーナツを買った。(途中、ものすごく後悔して挫けそうになったが)
その帰り道につらつら考えた。今日ミスタードーナツをならんで買って食べる。何十年ぶりだろうか?その数日後、相方が出張から帰ってくるはずだ。彼女は僕の変化に気がつくだろうか?
僕は尋ねる
「何か変わったことに気がつかないか?」
たぶんそれだけではきっと分からないはずだ。オッケー、じゃあヒントをだそう。
「ドーナツ的な何かの変化だ」
「ドーナツ的変化ってなに?真ん中がなくなること?例えば後頭部の中心が薄くなってきてるとか?」
…やめよう、この変化の話は。
じつはミスタードーナツには二十歳の頃、夜中に友人達とよく行っていた。僕等の住んでいたローカルな街には大阪に続く幹線道路があって、そこは夜中でも大型の長距離トラックやタクシーが切れ間なく走っていた。
その国道の交差点の一角にミスタードーナツがあって、その店は明け方までやっていたので、度々そこが僕等の溜まり場になっていた。
そこに至るにはだいたいこういったパターンに陥る。
バイトをする⇒少ない給料をもらう⇒
パチンコで増やして豪遊しょうと目論み仲間といく⇒スッテンテンになる⇒
誰かの財布に生き残った数千円で王将に行き餃子を食べる⇒
食後、ミスタードーナツでコーヒーを飲み、ドーナツを食べながらくだらない話をして朝までいる。
”若いときには時間はあるが金はない”とよく言う。このセリフには普通、続きがあって”でも歳をとれば金はあっても時間がなくなる”と本来は続くのだ。なのに何故か”歳をとったら時間も金もなくなった”…現実はいつも辛い。
ところで友人の中にミスタードーナツに行くと決まってオールドファッションを食べるヤツがいた。彼はいつもオールドファッションを食べながら「知ってるか?オールドファッションは一見すると地味に見えるけど、実は全メニューの中でいちばんカロリーが高い!」という話を何度も繰り返した。(カロリー云々が定かかどうかは今も知らない)
じゃあ、なんでその”高カロリーなオールドファッション”をいつも食べるんだ?と僕は聞いた。
「そんなこと決まっているだろ。オールドファッションには哲学がある。他のものにはない。フレンチクルーラーは軟弱者の食べ物だし、エンゼルクリームを頼むヤツは人生の負け犬だ」と彼は言った。そのとき僕はフレンチクルーラーを齧っていた。
ある夜、いつものようにパチンコに負けて僕等はミスタードーナツにいた。傘がいらない程度に小雨が降っていた夜だ。
友人のKがダバコがなくなったので”オールドファッション”に一本分けてくれ、と頼んだ。話が一通り尽きてみんな退屈し始めていた時間帯だったのだろう。いつもなら何も言わずにタバコの箱を彼にポンと渡すのに、そのときオールドファッションはこう提案した。
「ジャンケンをしてKが勝ったらダバコを吸いたいだけ吸ってもいい。もし俺が勝ったらそこの交差点の信号が青のうちに横断歩道を兎跳びで往復して戻ってくる、どうだ?」
交差点の道幅は右折レーンを含めて片道3車線あったので結構な距離があった。数分後、Kは小雨の中で横断歩道を兎跳びで”こちら側”に戻って来ようしているのがミスタードーナツの大きな窓から見えていた。あともう少しというところで脚が縺れ、信号は赤にかわり大型トラックにクラクションを鳴らされていた。Kのドーナツの好みはエンゼルクリームだった。
あの交差点のミスタードーナツはまだあるのだろうか?彼等は今頃どうしているのだろう?もうずいぶん遠い昔の話だ。そして今日も僕はフレンチクルーラーをいちばん最初に齧っている。
ドーナツ売り場の列にならんだくらいで人生のいったい何が変わるというのか?
”フレンチクルーラーは軟弱者だ”
確かにその通りかもしれない。
レジで支払いを済ませたあと、まっすぐ帰らずに同じショッピングモール内にあるミスタードーナツに向かった。安売りのキャンペーンをしているらしく、僕が買い物を済ませる前に通りがかったときから短い列ができていた。
ミスタードーナツは過去に何度も食品衛生管理の問題を起こしているし、酷い例では外部業者の告発を口止料を払ってもみ消し、そのまま件の商品を売り続けたのが発覚し裁判沙汰になったこともある。それなのに今もドーナツは売れ続け、キャンペーン中は行列までできるのだ。僕にはそれが不思議でならない。(そういった例はいくつもあるのだろうが、たまたまその日はミスタードーナツだった。特別に恨みがあるわけではない&今回はそういった事を話したいわけでもないのだけど、ミスタードーナツが好きだと思われるのは心外なので書いた)
そんなネガティヴなイメージをもつミスタードーナツに、何故かその日は行列にならんでみたくなった。映画にせよラーメン屋にせよ、およそ”列にならぶ”という行為が嫌いなはずなのに。とくに理由はない。あえて理由を挙げるなら”今までこういうの、ならんだ事ないよなあ。避けてきたよなあ。…もしならんで買ったりしたら何かが変わるだろうか?”と思ってしまったのだ。こういった”魔がさす”といったことはたまにあって、要するに暇だった。
10分くらいならんでドーナツを買った。(途中、ものすごく後悔して挫けそうになったが)
その帰り道につらつら考えた。今日ミスタードーナツをならんで買って食べる。何十年ぶりだろうか?その数日後、相方が出張から帰ってくるはずだ。彼女は僕の変化に気がつくだろうか?
僕は尋ねる
「何か変わったことに気がつかないか?」
たぶんそれだけではきっと分からないはずだ。オッケー、じゃあヒントをだそう。
「ドーナツ的な何かの変化だ」
「ドーナツ的変化ってなに?真ん中がなくなること?例えば後頭部の中心が薄くなってきてるとか?」
…やめよう、この変化の話は。
じつはミスタードーナツには二十歳の頃、夜中に友人達とよく行っていた。僕等の住んでいたローカルな街には大阪に続く幹線道路があって、そこは夜中でも大型の長距離トラックやタクシーが切れ間なく走っていた。
その国道の交差点の一角にミスタードーナツがあって、その店は明け方までやっていたので、度々そこが僕等の溜まり場になっていた。
そこに至るにはだいたいこういったパターンに陥る。
バイトをする⇒少ない給料をもらう⇒
パチンコで増やして豪遊しょうと目論み仲間といく⇒スッテンテンになる⇒
誰かの財布に生き残った数千円で王将に行き餃子を食べる⇒
食後、ミスタードーナツでコーヒーを飲み、ドーナツを食べながらくだらない話をして朝までいる。
”若いときには時間はあるが金はない”とよく言う。このセリフには普通、続きがあって”でも歳をとれば金はあっても時間がなくなる”と本来は続くのだ。なのに何故か”歳をとったら時間も金もなくなった”…現実はいつも辛い。
ところで友人の中にミスタードーナツに行くと決まってオールドファッションを食べるヤツがいた。彼はいつもオールドファッションを食べながら「知ってるか?オールドファッションは一見すると地味に見えるけど、実は全メニューの中でいちばんカロリーが高い!」という話を何度も繰り返した。(カロリー云々が定かかどうかは今も知らない)
じゃあ、なんでその”高カロリーなオールドファッション”をいつも食べるんだ?と僕は聞いた。
「そんなこと決まっているだろ。オールドファッションには哲学がある。他のものにはない。フレンチクルーラーは軟弱者の食べ物だし、エンゼルクリームを頼むヤツは人生の負け犬だ」と彼は言った。そのとき僕はフレンチクルーラーを齧っていた。
ある夜、いつものようにパチンコに負けて僕等はミスタードーナツにいた。傘がいらない程度に小雨が降っていた夜だ。
友人のKがダバコがなくなったので”オールドファッション”に一本分けてくれ、と頼んだ。話が一通り尽きてみんな退屈し始めていた時間帯だったのだろう。いつもなら何も言わずにタバコの箱を彼にポンと渡すのに、そのときオールドファッションはこう提案した。
「ジャンケンをしてKが勝ったらダバコを吸いたいだけ吸ってもいい。もし俺が勝ったらそこの交差点の信号が青のうちに横断歩道を兎跳びで往復して戻ってくる、どうだ?」
交差点の道幅は右折レーンを含めて片道3車線あったので結構な距離があった。数分後、Kは小雨の中で横断歩道を兎跳びで”こちら側”に戻って来ようしているのがミスタードーナツの大きな窓から見えていた。あともう少しというところで脚が縺れ、信号は赤にかわり大型トラックにクラクションを鳴らされていた。Kのドーナツの好みはエンゼルクリームだった。
あの交差点のミスタードーナツはまだあるのだろうか?彼等は今頃どうしているのだろう?もうずいぶん遠い昔の話だ。そして今日も僕はフレンチクルーラーをいちばん最初に齧っている。
ドーナツ売り場の列にならんだくらいで人生のいったい何が変わるというのか?
”フレンチクルーラーは軟弱者だ”
確かにその通りかもしれない。
2015年11月19日木曜日
鴨川右岸
”川辺を散歩する”…いい響きだ。
”よく晴れた秋の日に川辺を散歩する”…さらにいい響きだ。
言葉のどこかに”ちゃんとした生活を送っています”という意味が内包されている気がする。
今週の休日、ちゃんとした生活を送っていない代名詞みたいな職業のバーテンダーが、よく晴れた秋の日の午後に川辺を散歩した。いちばんの目的は知人が営むギャラリーの二人展を見にいくことだったのだけど、それ以外にたまにはそういった”ちゃんとした生活”的なことをしてみたかったのだと思う。
家から北大路通りを東に向かい、鴨川にかかる橋まできて川沿いを南に行く。次の出雲路橋までは数百メートル。そこからさらに東に向かって徒歩5分くらいのところに目指すギャラリーがある。
最初は鴨川の左岸を川の流れに合わせて南に歩いた。左岸、右岸ともにどちらでも土手沿いを歩くことができるのだけど、たまたま信号の都合で左岸を歩くことになった。
”鴨川の左岸を歩く”…かなりいい響きだ。まるでボルトーのジロンド川流域でカベルネ・ソーヴィニヨンの葡萄畑を眺めながら散歩しているようじゃないか⁉︎ フランス…もちろん行ったことなんてないけれども。
目的のギャラリーに辿り着き、コーヒーをご馳走になり、ひとしきり昔話をした後(もちろん作品はじっくり見た)、復路に向かう。やはり帰り道は逆の”右岸”を歩きたかったので、今度は信号機に選択権を与えることはしなかった。”自分で選択したことはすべて正しい”。これは今までも、そしてこれからもずっと普遍的な真理だ。
だいぶんと西に傾いた太陽の光ではあるけれど、右岸は左岸より日当たりがよく心地よい。草むらでは秋の虫が寂しげに鳴いていて、どこからか学校の終業のチャイムも聞こえてくる。その音は放課後の気怠い気分を思い起こさせ、そしてそれがいったい何年前の出来事だったのかを考えたのだけど、あまりに遠くて途中で辿るのを諦めた。そこはもう散歩では辿り着けない距離にあった。
なんだか無性にビールが飲みたくなったのだけど、平日の昼間、それも夏ではなく晩秋に鴨川の岸辺でビールを飲んでいる人は見かけなかった。たぶんジロンド川でもいないと思う。それに学校のチャイムが聞こえるようなところでビールなんか飲んでると”補導”されるかもしれない。どうせ補導されるなら飲酒よりは不純異性交遊がいい、断然に。
そういうわけでビールを諦めしばらく歩いたら、今度は豆腐売りの車から追い討ちをかけるように哀しいラッパの鳴る音が聞こえてきた。
♩ぱーふー、ぱふぱふー♪
夕刻にこれに勝るBGMが世界に存在するだろうか?
秋の日の鴨川右岸は人をセンチメンタルにさせる。もしかしたらメルローの香りがそうさせるのかもしれない。
”よく晴れた秋の日に川辺を散歩する”…さらにいい響きだ。
言葉のどこかに”ちゃんとした生活を送っています”という意味が内包されている気がする。
今週の休日、ちゃんとした生活を送っていない代名詞みたいな職業のバーテンダーが、よく晴れた秋の日の午後に川辺を散歩した。いちばんの目的は知人が営むギャラリーの二人展を見にいくことだったのだけど、それ以外にたまにはそういった”ちゃんとした生活”的なことをしてみたかったのだと思う。
家から北大路通りを東に向かい、鴨川にかかる橋まできて川沿いを南に行く。次の出雲路橋までは数百メートル。そこからさらに東に向かって徒歩5分くらいのところに目指すギャラリーがある。
最初は鴨川の左岸を川の流れに合わせて南に歩いた。左岸、右岸ともにどちらでも土手沿いを歩くことができるのだけど、たまたま信号の都合で左岸を歩くことになった。
”鴨川の左岸を歩く”…かなりいい響きだ。まるでボルトーのジロンド川流域でカベルネ・ソーヴィニヨンの葡萄畑を眺めながら散歩しているようじゃないか⁉︎ フランス…もちろん行ったことなんてないけれども。
目的のギャラリーに辿り着き、コーヒーをご馳走になり、ひとしきり昔話をした後(もちろん作品はじっくり見た)、復路に向かう。やはり帰り道は逆の”右岸”を歩きたかったので、今度は信号機に選択権を与えることはしなかった。”自分で選択したことはすべて正しい”。これは今までも、そしてこれからもずっと普遍的な真理だ。
だいぶんと西に傾いた太陽の光ではあるけれど、右岸は左岸より日当たりがよく心地よい。草むらでは秋の虫が寂しげに鳴いていて、どこからか学校の終業のチャイムも聞こえてくる。その音は放課後の気怠い気分を思い起こさせ、そしてそれがいったい何年前の出来事だったのかを考えたのだけど、あまりに遠くて途中で辿るのを諦めた。そこはもう散歩では辿り着けない距離にあった。
なんだか無性にビールが飲みたくなったのだけど、平日の昼間、それも夏ではなく晩秋に鴨川の岸辺でビールを飲んでいる人は見かけなかった。たぶんジロンド川でもいないと思う。それに学校のチャイムが聞こえるようなところでビールなんか飲んでると”補導”されるかもしれない。どうせ補導されるなら飲酒よりは不純異性交遊がいい、断然に。
そういうわけでビールを諦めしばらく歩いたら、今度は豆腐売りの車から追い討ちをかけるように哀しいラッパの鳴る音が聞こえてきた。
♩ぱーふー、ぱふぱふー♪
夕刻にこれに勝るBGMが世界に存在するだろうか?
秋の日の鴨川右岸は人をセンチメンタルにさせる。もしかしたらメルローの香りがそうさせるのかもしれない。
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