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2017年9月14日木曜日

ノルウェーの森

今年、小沢健二が久しぶりに新曲を発表した。

流動体について

僕はとくに小沢健二のファンではないし、新曲が出るたびに興味をもって聞くわけでもない。

むしろオザケンに対しては、「ウキウキ通りを行ったり来たりできる王子様に、庶民の気持ちがわかってたまるか!」という、所詮は持たざる者の僻みをもっている。(ただし『さよならなんて云えないよ』の世界観は素晴らしい)

なのにこの曲を偶然耳にすることになったのは、かかりつけの医者から処方された薬を受け取りに近所の薬局にいった。その店内でFMから流れていたからだ。

もともと僕は歌詞とメロディとの価値を6対4くらいの割合で判断している(もちろん日本語に限るが)。だからこの曲を聞いたときも、同様に歌詞の方が気になったのだけど、その”気にかなり方”はいつもとは違うものだった。

たんに”スキ・キライ”ではないこの感覚。

何だろう、この感じは…

疑問はずっと頭のどこかに引っかかってモヤモヤし続けていたのだけれど、ある日、庭に生った無花果の実を眺めているとき、突然その光が霧を振り払うように射し込んできた。

無花果…

赤い実と緑の葉。


流動体について』の世界観。それは僕にとって、村上春樹著のノルウェーの森を想起させるものだった。(あくまでも主観的にだが)

決してその二者の内容が相似しているというわけではない。あくまでも歌詞の中にもでてくる”平行する世界”としての話だ。

つまり、もしノルウェーの森の主人公である”僕と直子”にとって、別の(平行する世界での)結末があったとしたら。

もし”ノルウェーの森、ハッピーエンドバージョン”なるものがあったとしたら、物語の冒頭で主人公が飛行機から降りてくるシーンは、小沢健二の描いた『流動体について』のようになるのではないか…というのが、僕の勝手な想像である。(それが飛行機であろうが、船であろうが、地下鉄であっても)





30年前、まさにこれからバブル経済が崩壊しようとしていた矢先。僕はまだ大学生であり、当時、何より大事だったことといえば、日本経済の行く末でも、間近に迫った就職活動でもなかった。ただ”彼女がいた”ということが、『絶対的すべて』の事象だった。

当時の僕は、”身勝手な愛情”という名の石炭を一生の間にいちばん大量に燃やして機関車を走らせていた時期だったし、その大量の石炭投入がもたらした結果は、ただ機関車を暴走させただけだった。レールを外れた機関車は彼女を傷つけ、そしてそれは抽象的な意味において、僕自身の自傷行為でもあった。

必然的な結果として、僕は彼女にフラれることになる。

その彼女が別れ際に最後のプレゼントととして、僕に手渡したのがノルウェーの森。表紙が赤と緑の上下巻だった。





『彼女から最後の贈り物』

その謎めいた響きのフレーズは、新たに見つかった23番目の寓意を含んだタロットカードのようでもあった。

そこには彼女からの、何かしらのメッセージがあるはずだったし、僕にとってその隠されたメッセージは”なくてはならないもの”だった。そのメッセージを読み解くことは、僕にとっての最後の希望であり、彼女との残された細い繋がりのようにも思えたのだ。

でも結局はどんなに目を凝らして読んでも、そこにあるべきはずの隠されたメッセージには辿り着けなかった。タロットカードは何度数えたところで結局は22枚なのだ。同様にノルウェーの森は何度読み返してみても、僕にとっては苦く切ない物語でしかなく、ミステリ小説のような劇的な謎解きは…ない。

たぶん、最初に読みはじめたときから、僕は本能的に理解していたのだと思う。そこに隠されたものなんて何もない…”なくてはならないもの”は”あってほしいもの”でしかないということを。

ノルウェーの森の主人公は、物語の最後でこう呟く。

「僕はどこにいるのだ?」 と。

彼女からのメッセージはそこにはない…それが骨身に染みて完全に理解できたとき、僕もまた、僕自身の座標軸を失った。

あのとき、僕はいったいどこにいたのだ?

そうして赤と緑の2冊はブックエンドに押さえつけられたまま、本棚の隅っこで永遠に提出されることのない宿題として、長い眠りについたのだった。





僕にはプロの作家の友人がいる。
彼女は昔、興味深いことを言っていて、小説における文字の”羅列”には美しさがあるというのだ。

物語の内容だとか、文法だとか、”言の葉”の使い方ではない。手にとった小説のページをランダムにめくり、その偶然開かれたページの”文字の並び”が美しく見えるかどうか? それだけで、その小説の良し悪しはほとんど判別できるというのだ。

数学者が数式を眺めて美しいと感じるのと同じように、それはある種の機能的な『造形美』といっていいのかもしれない。





あれから約30年の歳月が過ぎ去ったあと、僕に仕事上の都合で再びノルウェーの森を読む機会が訪れた。

他の本とは見間違えるはずのない、赤い表紙の本。それを静かに、ゆっくりと本棚から取りだし、少し戸惑いながら表紙を開く。

約30年ぶりに読んだノルウェーの森。それは以前に読んだときとはまったく別の小説のようだった。件の小説家がいっていた文字による造形美とはまた別に(もちろんそれも含めてのことだが)、長い歳月に錆びることのなく熟成し、完成された美しい世界がそこにあった。

これが30年という歳月なのだろう。当時、苦く思えたこの小説は、こんなにも綺麗なものだったし、僕は僕で「今、ここにいる」と迷わず言えるようになっていた。





もし、”ここにいる、今の僕”が30年前に戻ることができるとしたらどうだろうか?

いずれにせよ、やはり直子を救うことはできなかったはずだ。そして 自分自身も。

ただ直線上にある過去と未来とは違い、この世界の他に平行する”別々の世界”があるとしたらどうだろう?『流動体について』の歌詞のように。

”僕”と直子が結ばれる『流動体について』の歌詞中の世界もあれば、”僕”と直子がそれぞれの道の先で、別々な幸せを手に入れている世界があってもいい。(そのバージョンの『ノルウェーの森』を是非とも読んでみたいのだが)

たぶん、これが30年目にして辿り着いた僕なりの宿題の答えだ。(提出期限が過ぎてないことを祈るのと同時に、ウキウキ通りの王子様は、やはり名君だったと認めざるを得ないようだ)





そんなことを考えながら、僕は開店前の店でテーブルの上に置かれた赤と緑の本の表紙と、店の窓(2階)から見える、通りを行き交う人々の風景を交互に眺めている。

9月の夕刻。今夜の人通りはいつもよりカップルが多いみたいだ。その中のひと組に、どこか気の弱そうなノッポな青年と、小柄だけれど背筋をピンと伸ばし、少女の面影を残した女性が手をつなぎながら楽しそうに微笑みあって、店の前を通り過ぎていった。

あんな2人を以前どこかで見たような気がする。

できれば、いつまでもこの世界で、つないだその手を離さないように、と願う。



僕はここにいる。そして平行するすべての世界の直子が幸せでありますように。



今夜、僕は酒のかわりに、ほの甘いカルピスを飲む。

もちろん王子様に敬意を表して、だ。








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