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2013年10月14日月曜日

重陽の節句

菊酒を漬けました。



 昨日は陰暦の九月九日で重陽の節句です。

 奇数は陽で、その最大の数が重なるこの日はおめでたい日とされてきました。

 菊の季節とあって昔から無病息災や厄除の願いを込めて菊酒が飲まれてきたのですが、最近は花びらを浮かべるだけのものが多くみられます。

今回は古式に則って三日程ですが伊勢錦の純米酒に漬け込みます。


 菊は食用のものですが、八百屋さんに頼んで、かなり減農薬のものを用意してもらいました。菊は虫がつきやすく、無農薬のものは手に入りませんでした。

 水でよく洗ってから、梨木神社の湧き水で清めて仕込んであります。


あとは少し月光に晒して、重陽の節句を待ちました。


菊の花を漬けて一日目はちょっと苦味が出ましたが三日目にはそれが甘味に変わっていました。砂糖を入れたわけではありませんが、リキュールに近い味です。


ぜひ来年もしたいですね。





2013年10月13日日曜日

上弦の月

10月12日

今夜は半月、上弦の月です。

 上弦の月というのは、弦が見かけ上、上にあろうが下にあろうが、満月に向かって満ちていく過程の半月のことです。逆に満月から欠けていって半月になった時、下弦の月といいます。単純に半月の時、月に向かって弦が左にあれば上弦の月です。

ある研究によると、統計で満月の時は放火などの凶悪犯罪が多く、半月はその反対に注意力散漫になりやすく、交通事故などが多いと聞きます。

さて、今日は欠品したウイスキーを仕入れにいきました。

よく女の人がストレス解消に買い物をすると聞きますが、確かに仕入れにいって、いろいろと物色し、気に入ったボトルを手に入れるのはとても楽しいので、その気持ちはよく分かります。

しかし、それも元手があっての事、今日は仕入れ基金がいつになく切迫しているので、必要なボトル以外は決して買うまいぞ‼ とカタク心に誓って行ったのです。

 酒屋に入るや否や、店長が「いらっしゃいませ」のあと、間髪入れずに「今日は押し売りするボトルがあります⁈」ときた。

シングルモルト、タリスカのストームという新製品。
これは従来のものより、癖が強化されていると考えてもらえばいいのですが、このタリスカ、スタンダードのものはウイスキーにしては珍しい瓜系フルーツ、つまりメロンやスイカのフレーバーを持っていて、個人的にも大好きなウイスキーのひとつなのですが、癖が強化されても、その瓜系フルーツのフレーバーが感じられるかどうか? とても興味深いところです。


…あーあ、買っちゃったよ…
 …! しまった、今日は半月だった。
じゃ、仕方なし。月のせいだ。

という訳で、ただ今、お客様に口開けをしてもらうか、先にテイスティングするべきか思案中。

 本来ならお客様に口開けしてもらうのが筋なのでしょうが、今日はどーかなぁ?
 上弦の月だし、ついウッカリ開けてしまうかもなぁ。

2013年10月7日月曜日

悪魔は囁く

夜に爪を切るとどうなるか?

夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなる。だからしてはいけない。
昔から禁忌とされてきたことのひとつです。

元々の理由は語呂合わせで『世を詰める』、つまりは短命になるので親の死に目に会えないとか、今ほど明かりがなかった時代に手元がよく見えないのに爪を切るとケガの元だから、ということらしい。

爪切りの怪我くらいで何を大袈裟な…と思うかもしれませんが、主に農作業をしていた民族ゆえ、医療の未発達だった時代には手元の傷は破傷風などにかかりやすく、命を落とす原因に成り得たということです。

僕はこの二つのうち、二番目の理由は知ってはいましたが、自分なりにはこう解釈していました。

それは祈りに似たマジナイのようなものではなかったかと。

願いはその思いが強くあるほど叶いやすい。

親より先に死ぬのは最大の親不孝であるとよく言われます。今よりももっともっと死というものが身近であった時代、親を看取るのは難しく、たとえ長く生きたとしても臨終の際に死に目に会うというのは中々叶わない願いだったのではないだろうかと。もちろん、自分自身の問題としても長生きはしたい。

そんな願いをささやかに言い伝えにのせる。『夜に爪を切ると親の死に目に会えない』と。

そうするとどうなるか?
夜はもちろん、朝昼であろうとも爪を切るときはその禁忌を思い出す。そしてその都度、願うだろう。「ああ、今は夜でないから大丈夫だ」(=長生きしたい)と。

知らず知らずのうちにそれは祈りになり、願掛けになり、その回数は重なっていく。
そういうものだと思っていました。

もちろんこれは僕自身の解釈であり、正しいわけではない。
でもなんにつけ、こういったことに対して間違っていようがいまいが関係なく、考え、想像するということがとても大事なことだと思うのです。


この『夜に爪を…』とか『夜に口笛を吹くと…』というのはどこか『魔との邂逅』を思わせます。

不吉なことを行うとどこからともなく悪魔(和の禁忌で悪魔というのも変ですが…鬼と言うべきか?)がやってきて不幸にしてしまうというように。

でも思うに魔(鬼)というのは一見、凶暴で暴力的に思ってしまいがちですが、きっと彼らは直接、ヒトに対して物理的な危害を加えることはしないし、出来ないのではないか。

魔(鬼)が出てきて人にするのは”囁く”ということ。

耳元で小さく。

それはしてはいけない事をするように、行ってはいけない方向へ向かうように、ヒトの迷いや弱い心に付け込んで、そっと背中を後押しする。
それはとても心地いい囁きなのです。



もう一度、夜の爪切りの話に戻ります。

先日、高校の同級生たちと会った時のこと。彼らの数人には子供がいて、その教育の話になたとき。

民間の有名な大手教育会社ががあるのですが、その教育機関が発行している子供向けの本に書かれているそうなのです。

「”夜に爪を切ると親の死に目に会えない”というのは迷信です。だから夜に爪を切っても大丈夫です」と。

実際、お風呂上がりの方が爪が柔らかくなっていて切りやすいので、夜に爪を切る人も多いらしいのですが。


ただねえ、どうも釈然としないというか、なんか不気味なんですよね、その話を聞いて。

いいんですよ、夜に爪を切ろうが切るまいが。その人の自由なんだし。
『夜に爪を…』の禁忌の理由も今となっては無意味だし。

でも教育機関が「~は迷信だから大丈夫」というのはなんか胡散臭いんだなあ。

それって完全にマニュアル化でしょ?

考えなくていいよ、想像しなくていいよ。これは機械的に覚えとけば間違いないからって。

マニュアルに素直に従う人間て楽でいいんですよね、権力者や為政者にとって。プロパガンダにもすぐに靡(なび)いちゃうし。

多くの場合、答えなんてひとつではないし、答えがひとつの簡単な数式であったとしても、1+1=2と初めてそれを習った子供が石ころやビー玉を数えて確認する、その行為が大事な訳で。


「あなたの好きな人のタイプを教えてください」という問いかけに対して、「優しい人」「思いやりのある人」と答える人は多いですよね。

でも、”優しい”とか”思いやり”というのはいつもいつも目に見える簡単な出来事だけじゃなく、
むしろ考えたり、想像しないと出来ないことの方が遥かに多くあるのです。

優しさも、思いやりも、考え、想像した挙句の次の行動であるはずです。その訓練をしなければどうなるのだろう。

詰まるところ、たとえば、

電力が不足しています=原発、仕方ないですね。

領土問題、危機ですよ=軍強化、憲法改正仕方なし。

…みたいな短絡的な思考に陥って、予め用意された答えにあたかも自分が考えてたどり着いたみたいに思い込まされるようになってしまうでしょう。

その石ころを人ごみに向って投げたらどうなるか? 想像力があるから投げないでいられるはずなのです。



昔から云い伝わる諺や禁忌は本来の意味だけでなく、想像力を養うものではなかったか?

短絡的な答えを与えておいて、考えることや想像することをやめさせる教育者、権力者、為政者のコトバは悪魔の囁きのように思えてならないのです。