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2015年12月29日火曜日

年末年始のご案内

12月28日(月曜日)を持ちまして、2015年度の営業を終了いたしました。

2016年は元日より通常通り(火曜定休)営業いたします。

ご了承の程、宜しくお願いいたします。


良いお年をお迎えください。

                  店主 平岩

2015年12月17日木曜日

それでも地球はまわっている

雲ひとつないよく晴れた12月の夕方、僕はサンマを焼いた。

サンマを魚焼きグリルに入れてタイマーをセットする。焼き上がり時間は4分後だ。サンマが焼き上がるまでの4分間の間、僕は魚焼きグリルの前に立ったまま、福山雅治について考えていた。

2、3日前に録画しておいた映画を観たのがそもそものきっかけだ。

ガリレオという東野圭吾原作のミステリーがあって、それを福山雅治がTVシリーズで主演して人気がある。(TVは基本的に競馬中継しか見ないのだが、再放送で昼間に何度か観たことがある)
福山雅治が演じる天才物理学者の湯川(ガリレオ)が、警察に協力して完全犯罪のトリックを究明するという物語で1話完結。

で、人気があるので過去2回、映画化された。僕が最近観た録画は2回目のやつだ。



内容は、湯川が海洋資源かなんかの開発についての説明会に呼ばれていて、地方の寂れた海辺の旅館(民宿?)に宿泊中に殺人事件がおこるというものだ。

今回は謎解きよりも、その旅館に夏休みを利用して遊びに来ている”旅館を営む家族”の親戚の少年とガリレオとの心の交流を中心に物語は進んでいく。

ただ、その映画自体は殆ど関係ない。あるシーンが問題だった。(シナリオ、セリフ等が正確でないかもしれないが、概ね以下の感じで違ってないはず)

旅館での朝、福山雅治はロビーで新聞を読んでいる。そこに旅館の親戚の少年が彼に纏わりついて話しかける。(福山雅治演じる湯川は子供がキライな設定だ、”論理的でないから”という理由で)
しつこく話しかける少年に向かって福山雅治はこう言う。

「僕はいま何をしている?」

…新聞を読んでる、と少年は答える。

「そうだ、わかっているなら邪魔しないでくれ!」と言い放つ。

これだ。

これなんだ。

いつも”僕が”新聞を読んでいるときにこれを言いたいのだ。

…でも言えない。

小説読んでるときも、漫画読んでるときも、DVD観てるときも、競馬のメインレースで馬が走ってるときもコレを言いたい。

「僕はいま何をしている?」

bar月読の店舗スペースで月1で映画の会をやっている。そこで以前、『素晴らしき哉、人生』という名作を観たことがある。長い映画だ。3時間弱くらいだったか…

主人公の辛いエピソードが延々と続き、最後の10分くらいでドラマティックな出来事が起こり、物語は大団円を迎えるのだが、その残り10分に差し掛かったときに彼女は僕に向かって「水をくれ」と言う。信じられるか⁈ なぜ、あと10分が待てないのだ? ここはサハラ砂漠の真ん中じゃないんだ。

最後の10分をちゃんと観られない”素晴らしき哉、人生”なんて、変身しないで怪獣がやっつけられるウルトラマンとか、印籠を失くした黄門様と同じではないか?

「僕はいま何をしている?」

魚焼きグリルはもしかしたら故障しているのかもしれない。煙が少し漏れているのではないか? プラターズの歌声が聞こえてくる。そして涙が溢れそうになる。

福山雅治、君はエライなあ。

言いたいことがちゃんと言えて。

でも君は結婚した。今度はドラマじゃない、現実だ。

「僕はいま何をしている?」

言えるか?

毎朝、吹石一恵にそれをちゃんと言えるか?

「そうだ、わかっているなら邪魔しないでくれ!」

もし言えたら僕は君のファンクラブに入ってもいい。

もし言えなかったら、いや、たぶん言えないだろう。現実とドラマは違うのだ。現実では、なにかをひとつ得たなら、違うなにかをひとつ手放さなければならない。その時は一緒にカラオケにでもいって『家族になろうよ』でも歌おうじゃないか。

「僕はいま何をしている?」

…そう、僕はいまサンマを焼いているのだ。

2015年11月22日日曜日

お知らせ

2015 11/23~11/25(月曜日~水曜日)は臨時休業させて頂きます。ご迷惑をおかけ致しますがご了承の程、宜しくお願いいたします。




2015年11月20日金曜日

その先はドーナツ?

その日の午後、僕は家の近くにあるローカルなショッピングモールにいた。相方(嫁さん)が出張で留守なので夕食の食材を買いに来たという理由で。

レジで支払いを済ませたあと、まっすぐ帰らずに同じショッピングモール内にあるミスタードーナツに向かった。安売りのキャンペーンをしているらしく、僕が買い物を済ませる前に通りがかったときから短い列ができていた。

ミスタードーナツは過去に何度も食品衛生管理の問題を起こしているし、酷い例では外部業者の告発を口止料を払ってもみ消し、そのまま件の商品を売り続けたのが発覚し裁判沙汰になったこともある。それなのに今もドーナツは売れ続け、キャンペーン中は行列までできるのだ。僕にはそれが不思議でならない。(そういった例はいくつもあるのだろうが、たまたまその日はミスタードーナツだった。特別に恨みがあるわけではない&今回はそういった事を話したいわけでもないのだけど、ミスタードーナツが好きだと思われるのは心外なので書いた)

そんなネガティヴなイメージをもつミスタードーナツに、何故かその日は行列にならんでみたくなった。映画にせよラーメン屋にせよ、およそ”列にならぶ”という行為が嫌いなはずなのに。とくに理由はない。あえて理由を挙げるなら”今までこういうの、ならんだ事ないよなあ。避けてきたよなあ。…もしならんで買ったりしたら何かが変わるだろうか?”と思ってしまったのだ。こういった”魔がさす”といったことはたまにあって、要するに暇だった。

10分くらいならんでドーナツを買った。(途中、ものすごく後悔して挫けそうになったが)
その帰り道につらつら考えた。今日ミスタードーナツをならんで買って食べる。何十年ぶりだろうか?その数日後、相方が出張から帰ってくるはずだ。彼女は僕の変化に気がつくだろうか?
僕は尋ねる

「何か変わったことに気がつかないか?」
たぶんそれだけではきっと分からないはずだ。オッケー、じゃあヒントをだそう。

「ドーナツ的な何かの変化だ」

「ドーナツ的変化ってなに?真ん中がなくなること?例えば後頭部の中心が薄くなってきてるとか?」

…やめよう、この変化の話は。

じつはミスタードーナツには二十歳の頃、夜中に友人達とよく行っていた。僕等の住んでいたローカルな街には大阪に続く幹線道路があって、そこは夜中でも大型の長距離トラックやタクシーが切れ間なく走っていた。

その国道の交差点の一角にミスタードーナツがあって、その店は明け方までやっていたので、度々そこが僕等の溜まり場になっていた。

そこに至るにはだいたいこういったパターンに陥る。

バイトをする⇒少ない給料をもらう⇒
パチンコで増やして豪遊しょうと目論み仲間といく⇒スッテンテンになる⇒
誰かの財布に生き残った数千円で王将に行き餃子を食べる⇒
食後、ミスタードーナツでコーヒーを飲み、ドーナツを食べながらくだらない話をして朝までいる。

”若いときには時間はあるが金はない”とよく言う。このセリフには普通、続きがあって”でも歳をとれば金はあっても時間がなくなる”と本来は続くのだ。なのに何故か”歳をとったら時間も金もなくなった”…現実はいつも辛い。



ところで友人の中にミスタードーナツに行くと決まってオールドファッションを食べるヤツがいた。彼はいつもオールドファッションを食べながら「知ってるか?オールドファッションは一見すると地味に見えるけど、実は全メニューの中でいちばんカロリーが高い!」という話を何度も繰り返した。(カロリー云々が定かかどうかは今も知らない)

じゃあ、なんでその”高カロリーなオールドファッション”をいつも食べるんだ?と僕は聞いた。
「そんなこと決まっているだろ。オールドファッションには哲学がある。他のものにはない。フレンチクルーラーは軟弱者の食べ物だし、エンゼルクリームを頼むヤツは人生の負け犬だ」と彼は言った。そのとき僕はフレンチクルーラーを齧っていた。

ある夜、いつものようにパチンコに負けて僕等はミスタードーナツにいた。傘がいらない程度に小雨が降っていた夜だ。

友人のKがダバコがなくなったので”オールドファッション”に一本分けてくれ、と頼んだ。話が一通り尽きてみんな退屈し始めていた時間帯だったのだろう。いつもなら何も言わずにタバコの箱を彼にポンと渡すのに、そのときオールドファッションはこう提案した。

「ジャンケンをしてKが勝ったらダバコを吸いたいだけ吸ってもいい。もし俺が勝ったらそこの交差点の信号が青のうちに横断歩道を兎跳びで往復して戻ってくる、どうだ?」

交差点の道幅は右折レーンを含めて片道3車線あったので結構な距離があった。数分後、Kは小雨の中で横断歩道を兎跳びで”こちら側”に戻って来ようしているのがミスタードーナツの大きな窓から見えていた。あともう少しというところで脚が縺れ、信号は赤にかわり大型トラックにクラクションを鳴らされていた。Kのドーナツの好みはエンゼルクリームだった。

あの交差点のミスタードーナツはまだあるのだろうか?彼等は今頃どうしているのだろう?もうずいぶん遠い昔の話だ。そして今日も僕はフレンチクルーラーをいちばん最初に齧っている。
ドーナツ売り場の列にならんだくらいで人生のいったい何が変わるというのか?
”フレンチクルーラーは軟弱者だ”
確かにその通りかもしれない。





2015年11月19日木曜日

鴨川右岸

”川辺を散歩する”…いい響きだ。
”よく晴れた秋の日に川辺を散歩する”…さらにいい響きだ。
言葉のどこかに”ちゃんとした生活を送っています”という意味が内包されている気がする。
今週の休日、ちゃんとした生活を送っていない代名詞みたいな職業のバーテンダーが、よく晴れた秋の日の午後に川辺を散歩した。いちばんの目的は知人が営むギャラリーの二人展を見にいくことだったのだけど、それ以外にたまにはそういった”ちゃんとした生活”的なことをしてみたかったのだと思う。

家から北大路通りを東に向かい、鴨川にかかる橋まできて川沿いを南に行く。次の出雲路橋までは数百メートル。そこからさらに東に向かって徒歩5分くらいのところに目指すギャラリーがある。
最初は鴨川の左岸を川の流れに合わせて南に歩いた。左岸、右岸ともにどちらでも土手沿いを歩くことができるのだけど、たまたま信号の都合で左岸を歩くことになった。
”鴨川の左岸を歩く”…かなりいい響きだ。まるでボルトーのジロンド川流域でカベルネ・ソーヴィニヨンの葡萄畑を眺めながら散歩しているようじゃないか⁉︎ フランス…もちろん行ったことなんてないけれども。


目的のギャラリーに辿り着き、コーヒーをご馳走になり、ひとしきり昔話をした後(もちろん作品はじっくり見た)、復路に向かう。やはり帰り道は逆の”右岸”を歩きたかったので、今度は信号機に選択権を与えることはしなかった。”自分で選択したことはすべて正しい”。これは今までも、そしてこれからもずっと普遍的な真理だ。

だいぶんと西に傾いた太陽の光ではあるけれど、右岸は左岸より日当たりがよく心地よい。草むらでは秋の虫が寂しげに鳴いていて、どこからか学校の終業のチャイムも聞こえてくる。その音は放課後の気怠い気分を思い起こさせ、そしてそれがいったい何年前の出来事だったのかを考えたのだけど、あまりに遠くて途中で辿るのを諦めた。そこはもう散歩では辿り着けない距離にあった。

なんだか無性にビールが飲みたくなったのだけど、平日の昼間、それも夏ではなく晩秋に鴨川の岸辺でビールを飲んでいる人は見かけなかった。たぶんジロンド川でもいないと思う。それに学校のチャイムが聞こえるようなところでビールなんか飲んでると”補導”されるかもしれない。どうせ補導されるなら飲酒よりは不純異性交遊がいい、断然に。

そういうわけでビールを諦めしばらく歩いたら、今度は豆腐売りの車から追い討ちをかけるように哀しいラッパの鳴る音が聞こえてきた。
♩ぱーふー、ぱふぱふー♪
夕刻にこれに勝るBGMが世界に存在するだろうか?
秋の日の鴨川右岸は人をセンチメンタルにさせる。もしかしたらメルローの香りがそうさせるのかもしれない。




2015年10月15日木曜日

ブックカバー

ショッピングモールの中にある、ちょっと大きめの本屋に行って文庫本3冊を買った。そしてレジで支払いをしているとき、”あぁ、ハズレだなぁ…”と思う。

その店員は若い男性だった。
いや、別に若くて美人の女性を期待していた訳ではない。(もちろんそれに越したことはないが)
その店員が無愛想で目も合わさず、ニコリともしなかったことに腹を立てた訳でもない。(マクドナルドに来たのではないのだから)

僕は文庫本を買うときは必ずブックカバーをつけてもらうようにしている。このカバー、上手い人が折り目を付けると読んでいる途中、ページがどの角度に曲がっても違和感なく、心地よく読み進めることができる。逆にそうでない場合、”ギシギシした音がなるような感じ”がしてとてもストレスがたまる。

そしてこの若く無愛想な男性店員、手元がぎこちなく、何度もカバーに折り目を付けるときに動作が止まっていた。上手い人がそれをする場合、必ずその作業は流れるようにスムーズだ。


この差はどこで生まれるのだろう?
仕事のキャリアの違いだけではなさそうだ。きっと彼はあまり本を読まないのだろう。自分の経験がないからそれが理解できない。肩こりの経験がない人が他人の肩を揉むときにツボが分からないのと同じだ。

彼が3冊の文庫本にぎこちなくブックカバーを付けている間、僕は本屋に勤めながら、あまり本を読まない店員の将来について考えていた。
この仕事、きっと好きで働いている訳ではないのだろうし、長くは続かない。次の仕事は何を選ぶのだろうか?マクドナルドの面接は受けるだけ無駄だろうな、と思ったところでやっと取り付けが完成した。

購入した文庫本を家に持ち帰り、昨日の夜に飲み残したワインをお供に読み始めた。
…はやりカバーの折り目がギクシャクしていて読み辛い。嫌な予感は大抵の場合、当たってしまう。

”だったら自分でカバーを付け直せばいいだろう”と思うかもしれない。でもそれは出来ない相談なのだ。自分自身が読みやすく器用に折り目をつける事が出来ないのを既に知っている。何故なら僕もあの店員と同じようにあまり本を読まないからだ。(自分で書いていてとても残念な話だ)

でも幸いにして僕は本屋の店員ではない。その幸運とを相殺することでカバーの折り目と”折り合い”を付けることにした。

ただ本はまだ1冊目であり、僕の幸運はあと2個ほど足りなかった。








2015年10月8日木曜日

村上春樹を読まない僕の、彼への巡礼の旅

最近、禁断のブツに触れている。村上春樹氏(以下敬称略)の小説だ。もちろん今までに一冊も読んだことがない、というわけではない。村上春樹が嫌いな訳でもない

正確には…多分…”アンチ村上春樹ファン”なのだ。(念のため書いておくけど冗談半分、遊び半分に言ってるので本気モードで突っ込んでくるのはやめて下さい、気が弱いから)

あれだけの部数が売れるほど、本当にあの世界観が好きな人がいるのか?とか、優勝直前に急に阪神ファンが膨れあがるのと同じで、単に流行に流されてるだけだろ?…とか反体制派wとしては思う訳なのだ。

あともうひとつ、学生のときに付き合っていた彼女が僕を捨てる穴埋めとして替わりに、別れ話に添えてノルウェーの森 上下巻をセットで与えてくれた。そこに如何なる意味があったのか未だに解読出来ていないし、結局その2冊は彼女の抜けた穴を塞ぐには形も大きさも違うようだった。答えのないパズルを解こうとする事ほど虚しい時間はない。ただあの出来事が僕を村上春樹から遠ざけた決定的出来事だったことだけは確かだ。

それがなぜ今、村上春樹なのかというと、月読で村上春樹の短編からの”なにか”を題材にしたイラストレーションを数ヶ月毎に展示するという試みを行っている。動機はそのイラストレーターが村上春樹の大ファンだったから、まあそれが良いだろうという事になった。

おっと、村上春樹ストにこういった言い方は、つまり安直で”軽く”思われる言い回しをしてよく厳重注意を受ける(ホントに受ける)のでタブーだった。”ファン”なんて安っぽい言い回しはよくない。彼女が「村上春樹を”敬愛している”から」だ。

そう言った訳で、最近はお客様との話題が件の作家作品についてになりやすい。でもそこで僕が「2、3冊しか読んだことないので、あんまり知りません」というのもなんだし(本当はもう少し読んでるけど)、上記の理由をたらたら説明し終わる頃にはジントニックの氷が溶けて水割りに変わってしまうかも知れない。で、渋々(嘘)読んでる訳だが、ここに来てとても大きな問題にぶつかった。

ノーベル賞だ。

もし彼が受賞したらどうなるか?本屋という本屋に宣伝広告が立ち並び、彼の膨大な作品群が売れまくるのは間違いない。そんな中で自分が彼の小説を立て続けに読んでいる図…

おめでとう!今日から君も立派な”にわか阪神ファン”の仲間入りだ。

ようこそ歓迎するよ。ここは安住の地だ。ホントはキミもずっとここに来たかったんだろう?

と、頭の中で誰が僕にずっと囁き続けることになるし、きっと僕はそれに耐えられない。喪失と彷徨の始まりがやってくる。

村上春樹氏にも悪いと思うし、彼を敬愛し受賞を待ち望んでいる方々にも申し訳ないが、一身上の都合で受賞するのは出来れば来年以降にしてはもらえないだろうか…と切に願っている。

…ああ、僕はいまいったいどこにいるのだろう?


2015年9月15日火曜日

心の旅

9月14日 pm20:00

明日、大腸の内視鏡検査がありまして…朝の6時半過ぎには起きないといけません。どちらかと言えば普段は就寝時間に近い時刻です。

(T ^ T)

先日、恒例の半日ドックに行きまして、結果はまあまあオッケーだったので大腸検査は任意で受けるのですが、以前に初めて受けたのは8年前でした。

胃カメラも苦しいのですが、大腸カメラはその10倍くらい辛かったです。

前には良性の小さいポリープがあってその場で切除したのですが、終わってから「数年に一度くらい検査を受けて下さい」と言われておりました…が、あまりにキツかったので、嫌だ嫌だと思っている間に8年もの歳月が過ぎ去りました。

でも「個人経営やってるしなー」とか、「嫁もいるしなー」とか、諸々の葛藤の中、つい弾みで先月の半日ドックの問診中に「今年は久々に大腸検査受けます!」と言ってしまった。

…後悔している。

あぁ…もう明日だ。

今日の昼間、「明日の今頃は…」とグチグチ言っていたら嫁が”心の旅”を歌いながら通り過ぎて行った。

あぁ、汽車に乗って逃げ出したい。

https://youtu.be/JEyuwKqKjRI


2015年9月2日水曜日

宝石は他がために輝く?

先週の土曜日、ちょっと珍しいカクテルのご注文を受けました。

ビジュー(フランス語で宝石)という名前のカクテル。

上から順にジン、シャルトリューズ(130種のハーブを使って作られる修道院のリキュール)、スイートベルモット(別名イタリアンベルモット、ワインに薬草を浸透させた広義でのリキュール)を混ぜずに段重ねにした見た目の美しいカクテルです。



ただ残念ながら、そのお客様にはお断り致しました。と言うのは、このカクテルはアルコール度数がひときわ高く、しかも甘い。(ジンの部分は超辛口ですが)

そのお客様、アルコールには強いのですが、甘いのが全くダメだったもので…

この様に色を段重ねにしたカクテルをプースカフェスタイルというのですが、概ね共通するのは日本人の味覚とアルコールの耐性からすれば甘すぎ&強過ぎるので、有り体に言って”不味い”と感じる人が大半である、という残念な結果になります。

そういう訳で、プースカフェスタイルのカクテルのご注文を頂いた時は、そのお客様がよくその味を理解してご注文されているのかをお聞きしてから作ります。(そして大抵の場合、却下されます)

今回のお客様も”友達がよく飲んでいて綺麗だったから”という理由でした。

ところで、プースカフェスタイルのカクテルは色と色の境界線が綺麗に分かれてないと駄作になります。(写真は左手にグラスを持って持ち上げながら、右手のスマホで撮ったので揺れて境界線がボヤけて写っていますが、テーブルに静止して置いてあるとちゃんと綺麗に分かれています…と言い訳明記w)

ビジューカクテル、白はダイヤモンド、緑はエメラルド、赤はルビーを表していて、その名を成していますが、僕はそこにもう一つの意味が隠されていると思っています。

ジンはイギリス産

シャルトリューズはフランス産

スイートベルモットはイタリア産

幾つかの隣接する国々が互いの強く甘く熟成した文化を侵すことなく、共存共栄しながら美しく成り立つ、平和=ビジューなのだと。

さて、撮影用に作ったカクテル…いったい誰が飲むんだろ?


         ↓ 証拠写真 w




2015年8月25日火曜日

真夏の夜の夢

日曜日、真夜中の少し前。

最後のお客様を見送るために階段を降りて富小路通りにでた。

すると南側の御池通りから歌声が聞こえてきた。

かなり遠いところから聞こえてくるのに大音量なので、「おやおや、酔っ払いのおっちゃんか…」と考え、北の方角に帰るお客様を見送ったあと、いずれ自分の前を通るであろう、その酔っ払いとおぼしきおっちゃんと目を合わさないようにしょう、と考えた。

からまれたくはないし、店に入ってこられても迷惑だ。

ただ、背中から近づいてくる歌声は素晴らしく上手だった。

菅原洋一とフランク永井を足して二で割った様な声と、カラオケルームでエコーを最大限に効かせたようなコブシまわし。

曲は浪曲の様にも聞こえたけれど何語か分からなかった。

異国の唄と浪曲が混ざり合った、混沌とした響き。それでいて心地よい。

お客様が遠くに消えていったのを確認して店に入ろうとした時、背中のやや近いところで歌声が止んだ。

振り向くと白いハットをかぶって、白いジャケットを着た五十代後半から六十半ばの歳の頃のおじさんがシャンと背筋を伸ばして立っていた。

両手は風呂敷の様なものと、手桶の様なもので塞がれていて、富小路通を挟んで僕と対になる立ち位置で電信柱の側。

その立ち姿は”酔っ払い”ではなく、完全にシラフであり、僕の見当は見事にハズレだった。

ハットに半分隠された顔立ちは北欧?を思わせるような感じで日本人では明らかにない。

でも始終、和かな表情を浮かべて、どちらかというと安心感さえ醸し出しているように思えた。

「こんばんは」とややふっくら目のその北欧おじさんは僕に話しかけた。

「コンバンハ」ではない、「こんばんは」なのだ。

つまり何の濁りもない、まごう事なき日本語。

挨拶を返すと、彼は言った。

「下の店と上は違うのですかな?」

「ええ、違います」

「どちらが”馬”の店ですか」

一階の馬刺しのお店には壁に大きなペナントが張り出してあり、”馬”という字が目立っている。

「馬刺しのお店は一階です」と僕は答える。

すると北欧おじさんが重ねて尋ねた。

「では二階のお店はなんですかな?」

「二階はバーなんです」

「そうですか。私はお酒は殆ど飲みませんからな…いや、なに、前から気になってましてね…」

僕は二階の窓から十年以上、この通りの景色を眺めてきたけれど、北欧おじさんは初めてお見かけするはずだ。

でも”前から気になっていた”という事は何度もこの通りを行き来しているという事だ。

「お近くの方ですか?」と僕が尋ねたら、少し笑ったような顔をしたまま、頷いたようだった。

「だいぶん涼しくなりましたな」と最後に北欧おじさんは言い、それから身体を北向きに返しながら軽く右手でハットを取って会釈をしながら去って行った。

歌声はさっきよりはやや小さめの音量で。



僕は階段を上がり店に戻りながらこんなことを考えていた。彼が酔っ払いでなく、からまれずに良かったこと。不思議な唄はなんと言う曲で、彼は結局、何人なんだろうという事。何故かしら爽やかで得をした気分になってるのはなんでだろうという事などについて。御近所ならまた会えるのだろうか、とも。

一通り考えたあと、でもアレ?なんか変だな。どっか引っかかるなあ…と妙に気になった。

下から戻ってきて1分後か、2分くらい過ぎていただろうか…

あっ!

あの時、ハットを取って会釈をした時‼︎

両手にあった風呂敷と手桶みたいな荷物、あれどうなってたんだろう? とても二ついっぺんに片手に持てるものではなかったはずだ。

歩き出す時の動作だったので地面に置いたはずもなく、後ろ姿には両手に荷物が確かにあった。

いったい彼はどうやってハットをとったのだろう…

階段を降りて、彼の去った方角を見た。

何処か脇の家に入ったのか、それとも路地を曲がったのか、もう彼は見えなかったし、歌声も聞こえてはこなかった。

シェイクスピアの戯曲のタイトルが頭に浮かんだ。

真夏の夜の夢…

2015年7月27日月曜日

川越旅

友人に川越を案内してもらってちょっと遅めのお昼ごはん、美味い蕎麦にありつく。



蕎麦の本場はなんと言っても東だ。「関西から来た客人はこれだから分かってないねぇ、蕎麦の食べ方がよぉ」などとバカにされる訳にはいかない。よって席に座っていきなり最初から蕎麦を注文するなどという無粋な真似はしてはいけない。

仕方がない、まずは酒とアテを頼むより他はない。我々の所作如何によって関西人の沽券がかかっている。したがってここは基本に忠実にいかねばならないのだ。



暑かったのでまずは地元のビール、それとオススメの油揚げステーキと郷土料理のこづゆ、あとは青豆豆腐の冷奴を注文した。蕎麦は一杯ひっかけた後だ。

そんなこんなで時間は過ぎ、アテは無くなって行った。そして〆の蕎麦を注文し、出されるのを待つ間に残っている青豆豆腐を箸で突きながら諺について考えていた。



ソクラテスやプラトンもきっとこんな時間帯に自己問答していたはずだ。

猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏という、ほぼ意味の等しい、動物の出てくる諺がある。言うまでもなく、価値の分からないものにいくら値打ちのあるものを与えても意味がないことを指す。

しかし待てよ?

猫に小判の値打ちは分からない→人には分かる。

豚に真珠の価値は分からない→人には分かる。

でも馬に有難い念仏の意味は分からない→人には分かる…は成立しないのではないか?

有難い念仏の値打ちを理解する人は如何程いるだろうか?

例えば今日みたいな暑い日。

「早くウチに帰って冷たいビールでも飲みながら冷奴でも食べたいなあ」と、考えている人間にだ。耳元でいくらアラブの偉いお坊さんが念仏を唱えても、きっとそれをされた人は恐れ慄き、訝しがるに違いない。

「何なんだ?アンタはいったい!」と。

残念ながら「やがて心うきうき」とは決してなりはしない。

…というような訳で詰まるところ、ここでは猫と豚は共通のグループだが、馬は仲間はずれになってしまう。これではいけない。

方法はある。

動物三点セットの諺にしたければ「馬の耳に念仏」をやめて「馬耳豆腐」にすればいいだけだ。

わっかるかなー?
わかんねーだろなー

そんな事を考えながら最後の青豆豆腐の冷奴を口に運んだとき、ソクラテスの背中が確かに見えた気がした。

関西人の沽券が守られた昼下がり、蕎麦は本当に美味しかったよ。



浦和旅



おそらくそこで暮らしのある友人に誘われなければ一生訪ねる事がなかった可能性の高い場所、浦和。



駅前の路地では新旧が混在し、夕刻からは飲屋街、日中は明るい商店街として賑わっていた。



京都で例えると昼間は屋根のない寺町通り、宵からは古き良き時代の木屋町通りの風情の二面性を持っている街といった感じだろうか。



街もそこに住む人たちも健やかでとても居心地が良かった。


2015年7月21日火曜日

臨時休業のお知らせ

2015年 7月22日(水曜日)は都合により、休業させて頂きます。
ご迷惑をおかけ致しますが、ご了承の程、宜しくお願い致します。


女王様の取り扱いには注意

先週の木曜日、早起きして”名画座”的な映画を観に行く。

今週は”アフリカの女王”。

明日までの上映だったので台風の影響を考えると選択肢は今日しかなかった。



この企画映画シリーズの致命的欠陥は朝の10時から1日1本しか上映しない事だ。夜中に仕事してる身としてはかなりヘヴィな時間帯…まあ、今日の夜はどうせ暇な台風ナイトになると思うけど、それにしても眠い。

映画館に行ったら必ず帰りにガチャガチャをやる。たぶんこれはもう習性のようなものだ。
今日は永井豪のマジンガーシリーズをみつけた。

ロケットパンチを発射しているマジンガーZが欲しかったのだけど、サンダーブレイクを撃とうとしているグレートマジンガーが出てきた。



サンダーブレイクっていうのは指先から雷を落として敵を攻撃する必殺技のひとつだ。

時たま、嫁さんがこの技を使って僕を攻撃する事があるので要注意。

ボギー、あんたの時代は良かった…

2015年7月9日木曜日

ダブル ラッキーエビス

もう30年ほどバーの仕事に携わってきたけど、1ケースの中から2本のラッキーエビスが出てきたのは初めてじゃなかろうか?

どーも運を無駄遣いしてる気がする…


2015年7月4日土曜日

反抗の酒

旅人―――

Barには時々、旅人がやってくる。

観光、仕事、放浪…地元の人ではない方々。
つい先日、旅人が月読にやって来た。お客様なのだから“お越しくださった”とか書くべきなのだろうが、ここは旅人らしく“やって来た”とさせて頂こう。

男性、それも同世代くらいか…
1杯目のジンをオンザロックで飲みながら、旅人はバックバーの棚にあるレコードを眺めている。
「この店はジャズ、ですか?」と旅人が僕に問う。

このテの質問に答えるとき、僕は他のお客様の状況や問いかけた人のタイプによって内容を変えている。

タイプAの答え
「はい、概ねジャズです」

タイプBの答え
「概ねジャズですが、時々ビートルズやカーペンターズなどをかける事もあります」

今回は店が暇で―――雨も降っていたからだと言い訳しておこう―――、この旅人も“なんとなく”そんなニオイがしたので僕はタイプCの答えを口にした。

「概ねジャズですが、時々ビートルズやカーペンターズ、キャロルキングなどをかける時もありますし、場合によっては昭和歌謡を流したりもしますよ。どちらかというと本質は“昭和歌謡Barを目指しています w  ああ、あとは中島みゆきとか―――」と言いかけたとき旅人が少し声のトーンを上げて僕に聞き返してきた。

(旅人)「中島みゆきがあるのですか!?」

「ええ、最近のはないですけど、昔のは全部揃ってますよ」

(旅人)「レコードで?」

「ええ、レコードで」

(旅人)「…」

「何なら今から、かけましょうか?」
という事で、旅人が2杯目のジンをゆっくり飲んでいる間にLPを二枚ほど聴いただろうか。
ターンテーブルが止まって音が途切れた時、再び旅人が話し始めた。

(旅人)「実はですね、昨日は横浜にいたのですが偶然入った老舗のBarで中島みゆきを聴かせてもらったのですよ、それもYouTubeで w」

「老舗のBarとYouTubeと中島みゆきですか! どこにラインを結んでも全部違和感のある組み合わせですね w」と僕。

(旅人)「そうなんですよw あのう、それでですね…YouTubeの音とレコードの音を聴き比べてみたいので、昨日、横浜のBarで聴いた曲をリクエストしてもいいですか?」

「もちろん、その曲があれば、ですけど…」

*** 世の中はいつも変わっているから ***

(旅人)「あ、その前にお代わりをお願いします。何でも飲めるので最後は”お任せ“しますので何かください」
*** 頑固者だけが悲しい思いをする ***

(旅人)「やっぱりレコードの音は違いますよね!」

*** 変わらないものを何かにたとえて ***

(旅人)「この曲を聴くと思い出すんですよね、子供の頃に観てたTV番組…」

*** その度崩れちゃ そいつのせいにする ***

「ああ、“金八先生”でしょ?」

*** シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく

*** 変わらない夢を 流れに求めて

*** 時の流れを止めて 変わらない夢を

*** 見たがる者たちと戦うため


そうは答えてみたものの、僕は“変わらない悪夢を見たがる者たち”の系譜と、それから、沖縄のことも思い出していた。






――― 頭の中で少し旅をした ―――

1700年初頭。
戦争でスコットランドはイングランドに併合され、ウイスキー造りはそれまでの何倍もの重税を課せられるようになった。

それに抗う人々は山深い奥地に隠れ、密造を始める。(モルトの銘柄に“グレン―谷―”がよくつけられているのはその名残だ)

そして100年以上後の1823年、ついに政府は税収がままならないために酒税法改正に踏み切り、以前のように公にウイスキーを造る事が出来るようになった。

レジスタンスの勝利だった。

ただもう一点、興味深い事もある。

この密造時代にスコッチウイスキーの最も特徴的であるピートで麦芽を乾燥させる事と、シェリー酒の空樽で寝かせて琥珀色に熟成させる事が始まっている。

暗黒の時代であってもなお人は知識や技術のスキルアップを可能とし、熟成し得ることが出来るのだという事実。

シングルモルトは“レジスタンス”、“反抗”のシンボリックな酒だと思う。



――― 旅人の3杯目のご注文。

世情を聴きながら、僕は“お任せの酒”を注ぐためにモルトの並んでいる棚に手を伸ばした。

2015年6月5日金曜日

祭りばやしが聞こえる

ジンフィズ。

このカクテル、僕は作るのも飲むのも大好きな飲み物のひとつなのだけど、最近では注文を受けることは少なくなった。

ただし作るにあたっては、けっこう手間のかかるカクテルではある。

今夜、bar月読は珍しく忙しかった。”いつ来ても空いている”が売りの寂れたバーの木曜日の夜なのに…

ジンフィズが四つ出た。
月読、始まって以来の一夜にして4杯のジンフィズだ。

と、同時にモヒートが3つにソルティドッグにジントニックにブラッディシーザー2つにカルアミルクが4つ。あとシャルトリューズトニック3つに…ええっと、あと何だっけ?
途中でお一人様がもう2人を迎えに行ったから乾杯に合わすには…えーっと、彼女の注文は何だったかな?
それはまだ作っては温くなるのでダメだし、後回し…ああ、ミントが足りない‼︎

とにかく木曜日の夜だからヒマだろうと余裕こいて過ごしていたら北島三郎が5人くらい入って来て一斉に祭を輪唱で歌い出したような、そんな夜になった。

昔ならこういうシュチュエーションは大好きで、頭で考える前に身体がパッパッと反応してスムーズに仕事がこなせたのに、今はもうダメだね、頭も身体もモタモタして全然ついて行かない。

「悲しいけどコレ、年齢なんだよね…」

衰えは隠しきれない、衰戦士…(575)

あ、歳がいってもひとつだけは発達してるな、”口”とか”言い訳”とか?

…全然ダメじゃん。


2015年6月4日木曜日

ステキな恋の別れ方

小説に出てくる男女の別れのシーン(会話や台詞について)で、特に印象深いものが2つある。

ひとつは作者もタイトルも覚えてはいない。話の内容もイマイチだった気がする。なのにそのシーンだけは覚えているのだから、やはり”よほど気に入った”のだと思う。

たしか大学生くらいの青年が一時、何だったかの店でアルバイトをする。そこには彼よりかなり歳上で物静かなお姉さんが若くして(店を商うにしては)店主をしていた。

二人はお互いに彼氏彼女がいる身であり、なんだかんだありながらラストで青年はアルバイトを辞めて店を出ていく。

この間、二人はプラトニックな関係であり、自分の意思表示は一切、相手に分かるようには現してはいなかった。

別れ際、青年が彼女を見て「さよなら。僕はたぶん、少しだけ貴女の事が好きでした…」という。
彼女はそれを聞いてまっすぐに青年を見つめ返して「さようなら…わたしもきっと少しだけ、貴方の事が好きだったわ」と応える。

これだけなんだけど、この”たぶん、きっと…少しだけ”あなたが、という微妙な機微がとても甘痛い感じで良かったんだなあ。

もうひとつはチャンドラーの長いお別れでマーロウが最後に呟く「サヨナラを言うことは少しの間、死ぬことだ」かな。

この小説も話の内容やプロットよりも会話や台詞が断然優れている類だったけれど…
高校生の時にコレ読んで「カッチョイー! 自分もいつか別れ話のあと、この台詞を言ってみよー」と思ったものだった。

あれから数十年、人生とはままならないものだと身に染みている。サヨナラを”言われて”死ぬ事多数。未だ”言って”死んだことはない…



カクテル ダスヴィダーニャ
(ロシア語でサヨナラの意)

ウオッカとグレープフルーツ、少しのライムとアクセントにサクランボのリキュールを。
ほんのりサクランボの香りが今の季節とマッチングして、飲むには旬も感じることが出来ます。

時間が経てば甘く美味しく思える…そんなサヨナラ、いいですね。

2015年5月8日金曜日

ゴールデンウイーク後

今年もゴールデンウイーク後、悪魔が通り過ぎる暇暇ウイークがやって来た…

さっさと店を切り上げて、夜中に夜食の焼うどんを作る。

この世の中には最高級に美味しいものが3つある‼︎

ひとつは『人が働いている時に飲むビール』

もうひとつは『真夜中の炭水化物』だ‼︎



え?! 3つめ?

もちろん、それは奥さんが作った手料理さ‼︎ w



2015年3月16日月曜日

臨時休業のお知らせ

明日、3月16日(月)は丹後半島にある久美浜までお墓参りに早朝から出かけるので、今夜の月読の営業は日曜閉店時間の定時である24時にきっかり終わらせていただきます。
(通常のように延長営業はいたしませんので御了承下さい)

あと、18日の水曜日は臨時休業させて頂きます。ご迷惑をおかけ致しますが宜しくお願い致します。

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久美浜は父方の田舎です。子供の頃は毎年夏休みに2週間くらいそこに滞在し、一日中、海で遊んで過ごしていました。

父が癌で亡くなってからもう数年、祖父母も既に鬼籍に入っているので久美浜にはお墓参りに行くだけです。バイパスが通ったりで時間は少しばかり短縮されたのですが、気持ちの距離は単純に時間では計れませんね。

昨日の夜、仕事から帰ってある曲をYouTubeで探していたら、たまたま下記の曲にたどり着きました。
ちょっとした物語風のプロモーションビデオになっているのですが、その中に一瞬だけ僕の中にある”記憶の画像”と瓜二つだったので不覚にも泣いてしまいました。

最近は映画観ても小説読んでも泣くことは無かったのですけどね。(元々、涙腺は弱くはあるのですが…)

https://youtu.be/ia1HWtcQLwQ






2015年3月7日土曜日

さーみしかった、ぼーくの部屋に・・・

不思議な事があった。

何日か前から、家の脱衣所の出窓に薔薇が一輪さしてある。

今日、お風呂から出た時、蒸気が脱衣所に漏れて部屋全体が、もぁーとなった。これはまあよくある事だ。というか常にそうなる。

問題はその後。

蒸気がひいて窓を見たら、丁度、薔薇と対象な形で窓に蒸気で書かれたような薔薇の模様が浮き出ていた。



むう。

気のせいか?


フランス土産

仕事でおフランスに行っていた、酒癖は超悪いけど踊りは上手い上七軒の芸妓さんから、ディジョンの壺入フレッシュマスタードとマスタードの殻をまぶしたチーズをお土産に貰った。



マスタードにはシャブリが混ぜてあるという事なので、これは是非ともシャブリに合わせねばなるまいと思い、買いに行った。



悪い癖で、お金はないくせに酒だけはいいものを買ってしまおうとする。(他ではまったく贅沢はしない清貧である)…が、ホントにない時はどうしようもない。



思わずグランクリュに伸びそうなった手をぐっと引っ込めて、今回はお手頃なプルミエに思いとどまる。作り手や畑など情報が書かれているポップには目もくれず、ビンテージだけを見て2008年を選んだ。結婚した年。ワインは熟成するが、果たして自分達はどうだろうか?

7年の歳月を振り返ってみるが、自分では分かりようもない。特別に大きな上昇もなく、かといって何かしら嫌な事があった訳でもなく…まあ腐ってなければ良しとしようか。
結婚記念日でもないのに、何故、こんな事を思うかというと、多分、確定申告を作成中だからだろう。なんでもかんでも”総決算”モードだ。

相方は今日から例によって宮崎出張なので、昨日夜中に月読の営業が終わってから、ポトフを作って(相方作)、マスタードとチーズをシャブリと合わせて食べた。



フレッシュのマスタードってこんなにアッサリしてるものだと初めて知って、夜中にばかばか食べたら今朝から胃が重く、後悔継続中。



(結婚)伴侶とマスタードは似ているかも知れない。
横に軽く添えると全体が豊かになるが、付けすぎると辛いだけだ………なんちって。



2015年2月25日水曜日

こーひーるんば

僕は珈琲というものが特に好きでもなく、かといって嫌いでもなく、まあ、あれば嬉しいけど無くても構わないといった感じで生活している。だだし朝、珈琲の香りが部屋に漂っているとなんとなく幸せな気分になるのでそれは好きなのだけど。

珈琲といえば喫茶店だが、これは”どっちでもいい”という珈琲の価値観よりはもう少し明確で、”苦手”である。いや、雰囲気とか場合によってはその内装とか、そこに流れる時間は好きなのだけど、すぐに飲み干してしまうんだな、珈琲を。(まあそれが紅茶でもジュースでも)


つまるところ、それから時間を持て余す。そのまま小一時間以上、ぼんやりと過ごす人もいるのだけど、いや寧ろそっちが多数派か…僕にはそれが出来ない。故に途中で”大人の飲み物、例えば麦のジュースとかに移行したい衝動に駆られる。


もしかしたら職業病の一種かもしれないけど、グラスが空いたまま長く過ごすと店に悪い気がして、すぐにお代わりを注文する。一時間いれば珈琲、紅茶を三杯は飲むことになり、店を出る頃にはお腹がちゃぷちゃぷになる。更に店が混んでると”早く出て席を空けてあげないと”と思うし、ドアが開いてお客さんが入って来るたびに身体が反応してその方角に意識が行き、たまに「いらっしゃいませ」と言いそうになる。

そんな訳で喫茶店で過ごす時間は実に神経をすり減らし、それが”カフェ”と呼ばれるものになると更に”こんなお洒落なところに野暮ったい自分が居てもいいのだろうか? 浮いてないか?”という不安がプラスされて苦手度は喫茶店の倍となる。そして自然に生活から珈琲はどんどん縁遠くなっていくのだ。


あとよく、「この人(この店)の淹れる珈琲は美味しいよ」と連れていってもらうことがままあるのだけれど、確かに”なんとなく美味しいな”とは思う。でも珈琲の数を飲んでいないので、それが”この人が淹れたから美味しい”のか(技術)、”このコーヒー豆の味や香りが自分に合っている”のか(品質)よくわからない。嗜好品を理解するには経験値が重要なのだ。



さて普段、自分で珈琲を淹れることはまずないのだけれど昨日今日と珍しく自分で珈琲を淹れて飲んでいる。

別に、夕べアラブの偉いお坊さんに出会った訳ではない。

実は先日、あるきっかけで珈琲を飲むことがあって、それがとても美味しく感じた。多分、過去最高に。なんとそれは”自分で淹れた珈琲”だった。

これはどういう事かといえば、もしかしたら僕は努力なしに珈琲を淹れる天才か?!
…の可能性はまず無くて、きっと豆の特徴が自分の嗜好によく合ったのだと思う。

その特徴というのが飲んだ時に珈琲独特の味がせずに、飲み干してから上がってくる香りがいくつもの果実のニュアンスで、それは実に上質なシングルモルトウイスキーの特質と似ていた。

その珈琲豆は一回分しかなかったので、もう一度確かめるべく以前に買った近所の珈琲ショップに行き、昨日もう一度試してみた。

ところが何か違う。飲み干した後から上がってくるフルーツフレイバーは確かに同じ種類のものだ。でもこの前のはもっと果実味が強かったし、何より口に入れた時の”珈琲の味”が強すぎる。でも豆は確かにこの種類であり、買った店も同じなのだ。

謎―――ではない。

簡単なことだった。最初に淹れた珈琲は一年前に友人が家に泊まりに来たとき、その珈琲好きな友人のために買ったもので、そのときの残り(豆を挽いたもの)を冷凍庫に入れっぱなしだったもの。新鮮な珈琲の香りは消え去り、最も強い果実の特徴的な香りだけが残っていた、珈琲党からすればそれは”劣化した”珈琲に違いない。

間違ってるな。
珈琲音痴であるからこその美食感だ。

でもそこにモルトウイスキーと同じ匂いを得たのは収穫で、今、どうにか一年ほど冷凍庫で挽いた豆を”熟成”(劣化だW)させた香りを再現できる淹れ方はないものかと、たぶん珈琲好きの人間が聞いたら張り倒されるような邪悪な研究を開始し、今朝も自分で珈琲をコポコポ淹れたのであった。

一応、補足として。

タバコやお酒も最初から美味しく味わえる人は稀で、数を重ねるうちにその本質的な味を理解できるようになるのが多くの嗜好品の特徴であるので、僕ももう少し珈琲を飲み続ければ、この”珈琲具合”wと”果実香”のバランスがもっといい場所で取れてくると思うのだけど、果たしていつになるだろうか? 邪悪な研究が完成するより先にそうなってくれることを願う。









2015年2月10日火曜日

ぷちぷちはお好き?

よくBarに行くとお酒とともに小皿に盛られたピーナツとかチョコレート、ドライフルーツなどが出されますね。

いわゆるチャームというやつです。

このチャーム、お客様によっては様々で、すぐに全部を食べ切る人、必ず少し残す人、まったく手をつけない人などなど…

意外に思われるかも知れませんが、まったく手をつけない人は結構いらっしゃいます。

飲むのに専念したいのでしょうね。

お腹が膨らむと酒が美味しくなくなるという方も多いですし、食べ物の味で酒の味が分からなくなるという方もいらっしゃいます。



ところが最近、面白いことを発見しました。

”殻付”のアーモンドとか、ピーナツをチャームにお出しすると、普段は食べない人もポリポリと皮を剥いて食べ始めるのです。

最初はなんとなく殻付のチャームはあまり残らないなあと思っていただけなのですが、どうも偶然では済まないくらいに普段、まったく手をつけない人もきまって殻をポリポリと剥くのです。

それで考えました。

荷物を包装するときに対ショックのために保護する、”ぷちぷち”といわれているビニールのもの、ありますよね?


あれって、本来の目的とは違って、指でぷちぷちと潰して音を立てて遊ぶの、誰もが一度はやったことあるでしょうけど、一旦やり出したら止まりません。

殻付のチャームに手をつける人が多いのはあれと似ているからではないでしょうか?

つまり、人間は指先を使うのが好きなんですね。それゆえに大脳が発達して人類は進歩してきたんだと、場末のBarの片隅でそんなことを考えてみたりして…

殻付チャームに手を出すか、出さないか。
それであなたの大脳の発達具合が分かるかも?